第1、第2、第3、第4の哨戒 1943年12月 - 1944年9月
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「アーチャーフィッシュ (潜水艦)」の記事における「第1、第2、第3、第4の哨戒 1943年12月 - 1944年9月」の解説
12月23日、アーチャーフィッシュは最初の哨戒で東シナ海に向かった。27日にミッドウェー島に寄港し燃料を補給した後、台湾北方海域で作戦任務に従事した。哨戒期間中、アーチャーフィッシュは1944年1月18日、22日、25日の3度にわたり商船3隻を攻撃し、9,000トン級貨物船の撃沈を報じたものの、実際には戦果は上げられなかった。1944年2月15日、アーチャーフィッシュは53日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投した。 3月16日、アーチャーフィッシュは2回目の哨戒でパラオ近海に向かった。パラオに対する機動部隊の攻撃が実施される予定であり、アーチャーフィッシュはパラオ北方で支援活動に従事した。この哨戒では、攻撃機会には恵まれなかった。アーチャーフィッシュは帰途にジョンストン島を経由。4月27日、アーチャーフィッシュは42日間の行動を終えて真珠湾に帰投。艦長がウィリアム・H・ライト(アナポリス1936年組)に代わった。 5月28日、アーチャーフィッシュは3回目の哨戒で小笠原諸島方面に向かった。6月28日、アーチャーフィッシュは北緯24度44分 東経140度20分 / 北緯24.733度 東経140.333度 / 24.733; 140.333の硫黄島沖で仮泊中の小船団を発見。10時ごろに雷撃し、魚雷1本が第24号海防艦の前部弾薬庫付近に命中。第24号海防艦は誘爆はしなかったものの、間もなく艦首から沈没していった。その後は硫黄島に対する第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)に対する救助支援任務に従事。また、7月2日には輸送船団を攻撃して、輸送船1隻撃沈および護衛艦1隻撃破を報じた。7月4日にはジョン・アンダーソン(後の少将)を救助した。7月15日、アーチャーフィッシュは48日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。潜水母艦プロテウス (USS Proteus, AS-19) による整備を受けた。 8月7日、アーチャーフィッシュは4回目の哨戒で日本近海に向かった。この本州近海における哨戒では、8月13日に北緯32度55分 東経152度43分 / 北緯32.917度 東経152.717度 / 32.917; 152.717の地点で250トン級のトロール船あるいは特設監視艇を砲撃により破壊した。9月29日、アーチャーフィッシュは53日間の行動を終えて真珠湾に帰投、ジョゼフ・F・エンライト少佐(アナポリス1933年組)がアーチャーフィッシュの艦長に就任した。エンライト少佐はアーチャーフィッシュの艦長として赴任する前、しばらくくすぶっていた。デイス (USS Dace, SS-247) の初代艦長として最初の哨戒に従事した際、「空母翔鶴が通過する」との情報を受けたエンライト艦長は自分の直感を抑えて命令に従った。その結果、翔鶴を攻撃するというチャンスを逃した。この哨戒で全く戦果を挙げることができなかったエンライト艦長は、デイスがミッドウェー島に帰投した後、「戦果を挙げられなかったのは自分の責任」と報告して自らを陸上勤務にまわす様要請し、潜水艦救護隊隊長に転じていた。そして約1年経って、アーチャーフィッシュの艦長として海上勤務に戻ってきたのである。
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