第1、第2、第3の哨戒 1941年12月 - 1942年3月
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1941年12月8日の真珠湾攻撃時、ポーパスはフィリピンのオロンガポ(英語版)で修理の途中であった。当時の艦長はジョセフ・A・キャラハン少佐(アナポリス1924年組)であった。4基の主エンジン全てがオーバーホール中であり、後部バッテリーは取り外されていたが、必要な作業は記録的な時間で完了した。ポーパスは12月20日にマニラに移動した。 12月22日、ポーパスは最初の哨戒でリンガエン湾および仏領インドシナ沖の南シナ海に向かった。コレヒドール島沖の防御機雷礁を通過して外洋に出る。1942年1月7日にはインドシナ半島パダラン岬沖に到達し、のち南沙諸島を横切ってスールー海およびセレベス海方面へと移動する。1月22日からはマカッサル海峡の哨戒を行い、2日後の1月24日、ポーパスはバリクパパン沖に到達し、バリクパパン沖海戦の戦場を見たものの、爆雷攻撃で追い払われた。バリクパパンのオランダ軍は自領の油井を破壊中であった。1月27日、引き続きバリクパパン沖で哨戒していたポーパスは、2隻の駆逐艦あるいは小型巡洋艦に対して魚雷を発射したが、戦果を挙げることはできなかった。1月31日、ポーパスは39日間の行動を終えてジャワ島のスラバヤに帰投。艦長がジョン・R・マックナイト・ジュニア少佐(アナポリス1930年組)に代わった。 2月9日、ポーパスは2回目の哨戒でオランダ領東インド諸島海域に向かった。主に迎撃を中心とし、3月6日夕刻には名取型軽巡洋艦と思しき艦艇を発見するが、魚雷発射の態勢まで持ち込めなかった。3月13日にはロンボク海峡近海で朝潮型駆逐艦と思しき艦艇と輸送船を発見して魚雷を4本発射したが、命中しなかった。3月30日、ポーパスは49日間の行動を終えて西オーストラリアのフリーマントルに帰投した。 4月26日、ポーパスは3回目の哨戒で東インド諸島およびセラム島方面に向かった。5月8日午後、ポーパスはアンボン沖で哨戒中の特設駆潜艇第五拓南丸(日本水産、343トン)を発見。夕方、ポーパスは第五拓南丸に向けて魚雷を発射したが回避され、第五拓南丸は反撃に打って出た。第五拓南丸は爆雷を6発投下し、爆発の衝撃でポーパスの鋲を緩め、電池に損傷を与えた。また、発電機も一時停電して操作は人力頼みとなったが、幸いにもこれ以上の被害はなかった。5月10日、ポーパスは5名のパイロットを救助。5月13日から16日にかけてダーウィンに寄港後、真珠湾へ針路を向ける。その後、ポーパスはウェーク島南西方およびポンペイ島近海で、6月5日のミッドウェー海戦で負けて退却してくるであろう2隻の重巡洋艦と2隻の駆逐艦からなる日本艦隊を迎撃するよう命を受けたが、最終的には日本艦隊には遭遇しなかった。6月17日、ポーパスは53日間の行動を終えて真珠湾に帰投。メア・アイランド海軍造船所に回航されて、オーバーホールに入った。その際、攻撃力アップを企図して外装魚雷発射管が装備され、艦橋改修やレーダー設置、エンジン換装なども行われた。
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