第1、第2、第3、第4の哨戒 1941年12月 - 1942年6月
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「ターポン (潜水艦)」の記事における「第1、第2、第3、第4の哨戒 1941年12月 - 1942年6月」の解説
日本軍による真珠湾攻撃の2日後の12月10日までには、18隻の潜水艦がフィリピンを出航しそれぞれ最初の哨戒に向かった。ターポンもルイス・ウォーレス少佐(アナポリス1925年組)の指揮下、ただちに出撃することとなった。12月9日、ターポンは最初の哨戒でルソン島南東海域、アルベイ湾方面に向かった。哨戒では数隻の日本軍艦艇を確認したものの、適切な攻撃位置を取ることができず、ターポンは1本の魚雷も発射することはなかった。哨戒中にマニラは陥落し、ターポンはオーストラリアに向かった。1942年1月11日、ターポンは33日間の行動を終えてダーウィンに帰投した。 1月25日、ターポンは2回目の哨戒でモルッカ諸島方面に向かった。1月30日に輸送船団を観測したが、護衛艦の警備が厳しくターポンは追跡をあきらめた。2月11日、ターポンは浮上して探索を行っているときに敵のサーチライトによって照射された。緊急潜航したものの4発の爆雷攻撃により艦首部分および方向舵角度指示器、左舷信号表示器が損傷した。2月23日から24日にかけての晩にターポンはフローレス島西方のボーリング海峡で座礁した。弾薬、真水、燃料、魚雷を投棄したものの、後退して離礁するに十分な軽量化とはならなかった。その後原住民のボートで士官1名がアダナラ島に渡った。彼は島に住む唯一の白人であるオランダの宣教師、H・フォン・デン・ルイストと共に艦に戻った。ルイスト牧師はウォーレス少佐に次の満潮は16時から18時の間だと知らせた。ルイスト牧師は前の4日間、日本軍機が島の上空を飛んでいたことを知らせ、乗員は多少の不安を感じた。その後3基のエンジンでターポンは離礁した。この哨戒では輸送船団の他、駆逐艦なども発見したが、魚雷発射の機会はなかった。3月5日、ターポンは40日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 3月28日、ターポンは3回目の哨戒で真珠湾に向かった。4月11日、ターポンは「真珠湾へ帰投の途中、サイパン島とトラック諸島航路、父島とポンペイ島航路を哨戒せよ」との命を受ける。アンガウル島近海を経て、5月3日ごろまでサイパン・トラック航路および父島・ポンペイ島航路を哨戒した。この哨戒では、4月26日に2隻の駆逐艦を、4月29日には病院船に遭遇した。それ以外、他の標的とは接触することもなかった。5月17日、ターポンは52日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。 5月30日、ターポンは4回目の哨戒でミッドウェー海戦に参加してオアフ島北方に向かった。パイク (USS Pike, SS-173) および駆逐艦リッチフィールド (USS Litchfield, DD-336) と哨戒チームを組んでカウアイ海峡を中心に哨戒。ターポンは敵艦と接触することはなく、6月9日に9日間の行動を終えて真珠湾に帰投。その後、ターポンはサンフランシスコに回航されてメア・アイランド海軍造船所でオーバーホールが行われ、攻撃力アップを企図して外装魚雷発射管が装備され、艦橋も改修された。作業は9月30日に完了した。艦長がトーマス・L・ウォーガン中佐(アナポリス1930年組)に代わった。
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