第1、第2、第3、第4、第5の哨戒 1941年12月 - 1942年6月
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「パイク (SS-173)」の記事における「第1、第2、第3、第4、第5の哨戒 1941年12月 - 1942年6月」の解説
12月8日の日本軍による真珠湾攻撃に応じて、パイクは艦長ウィリアム・A・ニュー少佐(アナポリス1925年組)の指揮下に、最初の哨戒で香港方面に向かった。マニラと香港を結ぶ海域哨戒したが、哨戒海域で出くわした船はジャンクだらけで、肝心の日本の艦船は12月17日に発見した輸送船以外見つけられなかった。その目標に対しては魚雷を1本だけ発射したが、命中しなかった。12月24日にはプラタス島を偵察。12月29日、パイクは21日間の行動を終えてマニラに帰投した。 12月31日、パイクは2回目の哨戒でセレベス島方面に向かった。その日の夕刻、パイクはオーストラリアのダーウィンに向かうよう指示された。2日後の1942年1月2日にマニラは陥落する。ダーウィンに向かう途中、パイクはモルッカ海峡、マナド近海で哨戒を行った。1月12日に白鷹型敷設艦と思しき艦艇、および1月8日と10日、13日には警戒中の日本の駆逐艦を発見する。1月24日、パイクは25日間の行動を終えてダーウィンに帰投した。 2月5日、パイクは3回目の哨戒でフローレス海方面に向かった。2月20日にオンバイ海峡にて夕張型軽巡洋艦と思しき艦艇を発見して魚雷を2本発射するも命中せず、24日にはアロール島沖で1隻の巡洋艦と4隻の駆逐艦からなる日本艦隊を発見するも先制の爆雷攻撃を受けて退散する。28日にもロンボク海峡で巡洋艦と駆逐艦を確認したが、攻撃はしなかった。3月に入ってからも3日に日本艦船を発見し、次いでジャワ島南岸部へ回ってチラチャップ(英語版)近海で哨戒する。3月8日にも敵味方不明の潜水艦を発見し、クリスマス島近海を哨戒中の3月19日にも7,000トン級貨物船を発見した。3月28日、パイクは51日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 4月19日、パイクは4回目の哨戒で真珠湾に向かった。真珠湾への道中では哨戒も行い、4月中はスンバ島やオンバイ海峡、セラム海などを哨戒。5月に入ってからはパラオ北方海域、ウェーク島沖を偵察。5月4日夜、パイクは太平洋艦隊の指揮下に入った。5月25日、パイクは35日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。 5月30日、パイクは5回目の哨戒でミッドウェー海戦に参加してミッドウェー島近海に向かった。ターポン (USS Tarpon, SS-175) および駆逐艦リッチフィールド (USS Litchfield, DD-336) と哨戒チームを組み、5月31日から6月5日までは真珠湾とカウアイ海峡を結ぶ海域および北緯26度30分 西経157度50分 / 北緯26.500度 西経157.833度 / 26.500; -157.833を中心とするミッドウェー島近海で、6月6日と7日はチームにグロウラー (USS Growler, SS-215) とフィンバック (USS Finback, SS-230) を加え、オアフ島から250マイル北方の海域で哨戒を行った。6月9日、パイクは11日間の行動を終えて真珠湾に帰投。オーバーホールのためメア・アイランド海軍造船所に回航され、攻撃力アップを企図して外装魚雷発射管が装備され、艦橋も改修された。
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