第一夜 アメリカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 11:30 UTC 版)
「99年の愛〜JAPANESE AMERICANS〜」の記事における「第一夜 アメリカ」の解説
大正元年(1912年)。当時の日本の農家は貧しく、大所帯の家族が多かった。続柄が次男以下の息子は長男とは違って家も田畑ももらえないため、出稼ぎのためアメリカなど海外へ移住する人も多かった。島根県奥出雲の貧しい自作農家・平松家の次男・長吉は家族の生活を助けるために近隣の知合いの野中一馬一家とともにシアトルの港に到着した。入管手続きを済ませ、15年前に先行移住して農場を営む野中の親戚である岡田勇の出迎えを待っていたが、待ち切れずに岡田農場まで岡田を訪ねに荷馬車に相乗りさせてもらい、一先ず岡田との面会は叶ったが、成功話ばかりではない、白人中心社会で起こり始めた黄禍論も相まって現地での日本人の厳しい求人就職・生活状況をも思い知らされて困惑しながらも、その中で生きる覚悟を決めた。 翌日早いうちに岡田農場を後にした長吉は人使いが荒いと聞かされた広瀬が経営する缶詰工場で働き始めた後、一年後にはあちこちの農場で働いて回る季節労働者(ブランケ担ぎ)として賃金を稼ぎ、島根の平松家への送金を欠かさなかった。1919年、26歳になった長吉は農業を廃業してシアトルの街中でクリーニング店を営む野中から仕送りばかりしている先行きを案じられ、最後の機会になろうとしているピクチャーブライド(写真花嫁)を世話する目的で呼び出して、長吉の一歳下の別嬪の写真を見せながらその気にさせるよう説き伏せた。その頃日本の岡山県新見の小作農の村上家では、当の本人が怖気づいたのと昔の男を追いかけて行って東京で働くこと決めてしまい、長吉のめかしこんだ姿の写真とともに送られてきた支度金や渡航費に手をつけてしまっていた父親は次女のともを説得して代わりに最後の写真花嫁らを乗せた船でシアトルに送り出し、長吉と出会った。それから間もなく、ふたりは野中や岡田ら日本人会の祝福を受けて結婚式を挙げ、晩餐の席上で大農場主となった岡田から長吉とも夫妻を雇い上げる申し出がなされた。それは、岡田農場の一角にある広大な荒地の開墾とその後の作付から収穫までの業務委託であった。二人が協力して苦難に立ち向かう姿は近隣に住むの未亡人地主キャサリン・グレッグの優しい目で見守られていた。彼らは隣近所の好みもあって、少ないながらも収穫の喜びを分かち合う仲にまでなる。 1922年6月、長吉らの長男誕生を聞き付けた野中や岡田は我が事のように喜んだ。それは、日系移民二世、米国籍を持つ市民の誕生ということであり、土地取引等に制限を受ける一世や帯同子女らには夢の実現といえた。キャサリンも長吉の長男誕生を訊き付けて自分の土地家屋を長吉に譲るというオファーが出される。しかし予てよりキャサリンと土地の売買交渉をしていたジェームスが長吉に売ることを聞かされて、敵意剥き出しで長吉夫妻に嫌がらせを仕掛け、遂にはキャサリンの思い出が詰まった家屋まで焼き払ってしまった。
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