第一回内国勧業博覧会
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「内国勧業博覧会」の記事における「第一回内国勧業博覧会」の解説
1877年(明治10年)8月、初代内務卿大久保利通の提案により、内務省の主導で開催された。博覧会の意義は、明治政府として初めて参加した1873年のウィーン万国博覧会によって、関係者の間で認識されていた。半年前に西南戦争が起こり、開催を危ぶむ声もあったが、予定通り実施された。内国博以前にも「博覧会」と銘打ったものは存在したが、その殆どが名宝や珍品を集めて観覧させることが目的の、いわば「見世物」であった。「勧業」を冠していることからも明らかなように内国勧業博覧会は、見世物を明確に否定し、殖産興業推進には必要な欧米からの新技術と日本の在来技術の出会いの場となる産業奨励会としての面を強調した。 しかし、多くの人々にとって博覧会とは何か理解されていなかったため、出品物の収集にあたっては各府県の出品取扱人による勧誘が行われた。出品者には他の出品作を見て自作の糧とし、また交易の足掛かりになると実見の大切を訴え、出品者の出京を要請した。出品に伴う運搬費などは、基本的に出品者の負担だったが、大久保は費用の一部を国や府県が援助する法律を成立させた。民間の運送会社も出品物運送費や出品者乗車賃などを約15~40%の割引を行った。特に三菱商会は、荷物運賃の他にも出品者・官吏の往復運賃も通常料金の半額に割引している。これら各社には内国博終了後、政府から賞杯が贈られた。 全国から集められた出品物は、前年のフィラデルフィア万国博覧会にならって、鉱業及び冶金術、製造物、美術、機械、農業、園芸の6つに分類され、素材・製法・品質・調整・効用・価値・価格などの基準で審査が行われた。優秀作には賞牌や褒状が授与され、いわば物品調査と産業奨励が同時に行われた。奨励の意味を込めて、出品者のうち約3割が何らかの賞を受けている。この博覧会では紡織産業が多くの割合を占めたが、その中で最高の賞牌、鳳紋賞牌を与えられた臥雲辰致のガラ紡は、博覧会後急速に普及し過渡期の紡績工業に貢献した。 上野公園に設けられた約10万平方メートルの会場には、美術本館、農業館、機械館、園芸館、動物館が建てられ、寛永寺旧本坊の表門の上には大時計が掲げられた。また、公園入り口に造られた約10メートルのアメリカ式の地下水汲み上げ用風車や上野東照宮前から公園にかけての数千個の提灯が掲げられた。入場者数は西南戦争やコレラの流行もあって大久保の予想を下回り、財政的には不成功だと大久保はイギリス公使パークスに語っている。しかし、勧業政策としての内国博は有用であり、以後の博覧会の原型となった。 上野公園。1877年8月21日開場、9月12日同会出品審査会官制審査条例を制定、11月30日閉場、出品者1万6172名、出品点数8万4353点、授賞5096点。
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