第一回内国勧業博覧会とは? わかりやすく解説

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第一回内国勧業博覧会

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 07:46 UTC 版)

内国勧業博覧会」の記事における「第一回内国勧業博覧会」の解説

1877年(明治10年)8月初代内務卿大久保利通提案により、内務省主導開催された。博覧会意義は、明治政府として初め参加した1873年ウィーン万国博覧会によって、関係者の間で認識されていた。半年前に西南戦争起こり開催危ぶむ声もあったが、予定通り実施された。内国以前にも「博覧会」と銘打ったものは存在したが、その殆どが名宝珍品集めて観覧させることが目的の、いわば「見世物であった。「勧業」を冠していることからも明らかなように内国勧業博覧会は、見世物明確に否定し殖産興業推進には必要な欧米からの新技術日本在来技術出会いの場となる産業奨励会としての面を強調した。 しかし、多く人々にとって博覧会とは何か理解されていなかったため、出品物の収集にあたっては各府県出品取扱人による勧誘が行われた。出品者には他の出品作見て自作の糧とし、また交易足掛かりになると実見の大切を訴え出品者出京要請した出品に伴う運搬費などは、基本的に出品者負担だったが、大久保費用一部を国や府県援助する法律成立させた。民間運送会社出品物運送費や出品者乗車賃などを約1540%の割引行った。特に三菱商会は、荷物運賃の他にも出品者官吏往復運賃通常料金半額割引している。これら各社には内国終了後政府から賞杯贈られた。 全国から集められ出品物は、前年フィラデルフィア万国博覧会ならって鉱業及び冶金術、製造物美術機械農業、園芸6つ分類され素材製法品質調整効用価値価格などの基準審査が行われた。優秀作には賞牌褒状授与され、いわば物品調査産業奨励同時に行われた奨励の意味込めて出品者のうち約3割が何らかの賞を受けている。この博覧会では紡織産業多く割合占めたが、その中で最高の賞牌賞牌与えられ臥雲辰致ガラ紡は、博覧会後急速に普及し過渡期紡績工業貢献した上野公園設けられた約10万平方メートル会場には、美術本館農業館、機械館、園芸館、動物館が建てられ寛永寺本坊表門の上には大時計掲げられた。また、公園入り口造られた約10メートルアメリカ式地下水汲み上げ風車上野東照宮前から公園にかけての数千個の提灯掲げられた。入場者数西南戦争コレラの流行もあって大久保予想下回り財政的に不成功だと大久保イギリス公使パークス語っている。しかし、勧業政策としての内国博は有用であり、以後博覧会原型となった上野公園1877年8月21日開場9月12日同会出品審査会官制審査条例制定11月30日閉場出品者1万6172名、出品点数84353点、授賞5096点。

※この「第一回内国勧業博覧会」の解説は、「内国勧業博覧会」の解説の一部です。
「第一回内国勧業博覧会」を含む「内国勧業博覧会」の記事については、「内国勧業博覧会」の概要を参照ください。

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