第一回使節
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 16:00 UTC 版)
クビライは使節の派遣を決定すると、翌1266年(文永3年・至元3年)付で日本宛国書である「大蒙古国皇帝奉書」を作成させ、正使・兵部侍郎のヒズル(黒的)と副使・礼部侍郎の殷弘ら使節団を日本へ派遣した。使節団は高麗を経由して、そこから高麗人に日本へ案内させる予定であった。 11月、ヒズル(黒的)ら使節団は高麗に到着し、高麗国王・元宗に日本との仲介を命じ、高麗人の枢密院副使・宋君斐と侍御史・金賛らが案内役に任ぜられた。しかし、高麗側は、モンゴル帝国による日本侵攻の軍事費の負担を恐れていた。そのため、翌年、宋君斐ら高麗人は、ヒズル(黒的)ら使節団を朝鮮半島東南岸の巨済島まで案内すると、対馬を臨み、海の荒れ方を見せて航海が危険であること、貿易で知っている対馬の日本人はかたくなで荒々しく礼儀を知らないことなどを理由に、日本への進出は利とならず、通使は不要であると訴えた。これを受けて使節は、高麗の官吏と共にクビライの下に帰朝した。 しかし、報告を受けたクビライはあらかじめ「風浪の険阻を理由に引き返すことはないように」と日本側への国書の手交を高麗国王・元宗に厳命していたことや、元宗が「(クビライの)聖恩は天大にして、誓って功を立てて恩にむくいたい」と絶対的忠誠を誓っていながら、クビライの命令に反して使節団を日本へ渡海させなかったことに憤慨した。 怒ったクビライは、今度は高麗が自ら責任をもって日本へ使節を派遣するよう命じ、日本側から要領を得た返答を得てくることを元宗に約束させた。 命令に逆らうことのできない元宗はこの命令に従い、元宗の側近であった起居舎人・潘阜らを日本へ派遣する。
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