第一回三頭政治とカエサル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 07:18 UTC 版)
「内乱の一世紀」の記事における「第一回三頭政治とカエサル」の解説
詳細は「ガイウス・ユリウス・カエサル」および「ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)」を参照 動乱の時期を経て、ローマは次第に元老院支配体制から有力な個人による統治へと性質を変化させていった。 スッラの死後、ローマは紀元前73年から紀元前71年にかけて剣奴スパルタクスの反乱が起こったが(第三次奴隷戦争)、それを鎮圧したローマ一の大富豪でエクィテス(騎士)出身のマルクス・リキニウス・クラッスス、ローマ軍の重鎮でポントス王国の反ローマ戦争(第三次ミトリダテス戦争、前74年 - 前63年)を破ってミトリダテス6世を自殺に追いこみ、紀元前63年にセレウコス朝シリアを滅ぼしてシリアとパレスチナを平定したグナエウス・ポンペイウス、そしてマリウスの義理の甥として民衆派を指導していたガイウス・ユリウス・カエサルが台頭していた。 紀元前63年にはルキウス・セルギウス・カティリナによる国家転覆計画が発覚したが、執政官マルクス・トゥッリウス・キケロは小カトの助力を得て首謀者を死刑とする判断を下して元老院より「祖国の父」(pater patriae)の称号を得ている。一方元老院は有力者であるポンペイウス、カエサル、クラッススの活動を抑えようとしたため、紀元前60年、3人は互いに密約を結んで国政を分担する第一回三頭政治が実現した。 紀元前60年にはポンペイウスとクラッススが、紀元前59年にはカエサルが執政官となり、ポンペイウスはヒスパニア、クラッススはシリア、カエサルは未平定のガリアの特別軍令権を得て、それぞれを勢力圏とした。ポンペイウスは東方で戦った自分の兵士への土地分配をおこなった。クラッススはパルティアとの戦争を受けもったが、紀元前53年のカルラエの戦いに破れてカルラエで戦死し、その首級はオロデス2世のもとに送られた。紀元前58年から紀元前51年にかけてのガリア戦争の成功によって名声を挙げたカエサルには、ガリア統治権がゆだねられた。 クラッススの死後、カエサルの台頭を危険視したポンペイウスは、それまで対立していた元老院と妥協し、ポンペイウスとカエサルは完全に対立するようになった。元老院はポンペイウスと結んでカエサルを「公敵」であると宣言、それに対しカエサルは紀元前49年、ルビコン川をわたってローマを占領、内戦が始まった。ファルサルスの戦いを経た後、エジプトに逃れたポンペイウスはプトレマイオス13世の側近により殺害された。 ポンペイウスを追ってエジプトに着いたカエサルはクレオパトラ7世をプトレマイオス朝の王位につけて、圧倒的な民衆の支持を背景にローマの権力を一手に収めると紀元前46年に終身独裁官となり、属州の徴税請負人の廃止、無産市民の新植民地市の建設、ユリウス暦の制定など急進的な政治改革を推進した。大がかりなモニュメントがつくられ、イベントも開催された。 しかし、こうした大胆な改革と専制的な独裁は元老院を中心とする国内の共和派の反感を買い、紀元前44年、反対派の元老院議員達によって暗殺された。
※この「第一回三頭政治とカエサル」の解説は、「内乱の一世紀」の解説の一部です。
「第一回三頭政治とカエサル」を含む「内乱の一世紀」の記事については、「内乱の一世紀」の概要を参照ください。
- 第一回三頭政治とカエサルのページへのリンク