立法・社会
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「コンスタンティヌス1世」の記事における「立法・社会」の解説
コンスタンティヌス1世はその治世の間に、特に西方の支配者となった治世半ばの314年から319年頃を中心に数多くの法律を定め、法律の運用を強化するためにその運用原則、国法、勅令、勅答(請願に対する返答)、覚書といった法的文書の効力や優先順位も定められた。 裁判を健全性の維持のために、密告や中傷の禁止、手続き期限の厳密化が定められ、属州総督の裁定で収まらない時は皇帝への上訴審をすべきことも通達された。役人の腐敗については厳罰をもってあたり、多くの罪状に死刑が適用された。これは常態化していた役人への付け届けの習慣を改めようとしたコンスタンティヌス1世の方針と関係していた。当時、訴訟を起こす場合にはまず官吏への贈り物が必要であり、コンスタンティヌス1世はこうした慣習を激しく非難した。そして属州総督たちに対して、それぞれの任地でこうした慣行を放置するならば同様の刑罰を与えるという脅しをも加えた。しかし、汚職対策が大きな成功を収めることはなかった。こうした官吏の服務規程や収賄に関する規定のほか、郵便、ソリドゥス金貨の偽造・私鋳の禁止、家族・相続関連の規定、退役兵の特権や一時金の支給、身分など国家・社会全般にわたって様々な法が定められている。 コンスタンティヌス1世はキリスト教を重視したが、一連の立法に対するキリスト教の影響を明確にそれと断定すること困難である。しかし、中には恐らくコンスタンティヌス1世の信仰に影響された内容を含むものも散見される。はっきりとキリスト教の影響と見做せるものの1つには死刑の際の十字架刑の廃止が挙げられる。同じくキリスト教と関係するであろうものに古代ローマにおいて伝統的娯楽であった剣闘士競技の禁止規定(325年)があり、これによって従来闘技場送りにされていた犯罪者たちは代わりに鉱山送りにされるようになった(ただし帝国の西方では剣闘士競技が実際に終了するのは100年あまりも後のことである)。また、結婚・家族の神聖性を重視する規定も恐らくキリスト教的価値観から現れたものであろう。コンスタンティヌス1世のは離婚の規定を厳格化し、重大な犯罪や売春などの嫌疑によらない限り離婚が許可されなくなった。他方ではイタリアやアフリカにおいて、貧しい両親が子供を売却することのないように公金から補助を与えることも命じられている。これもまた、同時代のキリスト教会の類例から影響を受けたものであると考えられる。女性の「慎ましさ」を保護する法も定められ、いかなる契約においても夫が妻の代理人であるべきことを定める法律や、資産の差し押さえの際に財産の代わりに女性を連れ去ることを厳罰をもって禁止する法律も残されている。コンスタンティヌス1世の家族を重視する姿勢を明確に示すもう1つの法律は皇帝御料地が複数の賃借人によって分割された際の奴隷の家族離散を禁止する法律である。ただしこれはコンスタンティヌス1世が奴隷制に対して何らかの否定的見解を持っていたことを示すものではない。彼が定めた他の法律において奴隷やコロヌス(小作農)に対する規定は過酷であり、主人による拷問の末に奴隷が死んだとしても罪とはされなかったし、奴隷・コロヌスの逃亡や反抗についても厳罰が加えられた。
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