私塾時期
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「東亜同文書院大学 (旧制)」の記事における「私塾時期」の解説
1899年(明治32年)- 日本の東亜同文会が南京城北に南京同文書院を設立。 1901年(明治34年)- 上海に東亜同文書院を設置、同年5月に上海南市高昌廟桂墅里の校舎で開学式を行う。南京同文書院からの学生と日本からの学生をあわせて第1期生とする。 1902年(明治35年)- 民間有志の拠金や日本政府の補助金を得て、中国からの留学生を対象とする東京同文書院が東京府東京市神田区に設置される。 1903年(明治36年)- 8月第3期生より秋季入学となる。 1905年(明治38年)- 6月 卒業生に学士称号。 1907年(明治40年)- 外務省より3カ年3万円の補助金を受給して、第1回支那調査旅行(大旅行)を実施。 1908年(明治41年)-1月 犬養毅来校。10月明治天皇より御下賜金。11月鍋島直大、清浦奎吾来校。 1909年(明治42年)- 8月、第9期生が東京で入学式を行い、宮城拝観が許可される。東京同文書院の併設の教育機関として目白中学校 (旧制)開校。 1909年(明治43年)- 10月、創立10周年祝賀式を行う。 1913年(大正2年)- 7月、第二革命による武装蜂起などの戦禍により、高昌廟桂墅里の校舎と寄宿舎が焼失、長崎県に大村仮校舎で学校再開。10月に上海閘北赫司克而路に仮校舎を設置、一部授業の再開。 1914年(大正3年)- 9月農工科設置。 1917年(大正6年)- 4月上海徐家匯虹橋路校舎が竣工。 1918年(大正7年)- 3月に学生数の増加と校舎増設を決定。中国人学生の日本留学並びに日本人学生の上海就学といった方針を転換、語学よりも学科を重きに据え、上海に中華学生部を設置して中国人学生の就学方針を固める。10月に書院内に職員研究部を設置。政治科募集停止。 1919年(大正8年)- 8月に中華学生部の校舎を竣工、校舎増築。 1920年(大正9年)- 4月農工科募集停止。9月に中華学生部(商務科)を開設、修学年限を4年として、2年目から商務科の授業を一本化する。
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