私営田経営者と「兵」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 02:10 UTC 版)
「私営田経営者」「私営田領主」という概念は、戦後第一世代の石母田正の『中世的世界の形成』により、学問的に定着された概念である。 その「私営田経営者」の時代に平将門の祖父・平高望らが関東に下向したのは板東群盗を押さえる為といわれるが、彼ら中央から下った軍事貴族は、国司と私営田領主の紛争解決の担い手としても位置づけられた。その最大の事件が平将門の乱である。しかし、この時代の兵力は、基本的に配下の農民をかき集めて武器を持たせる程度であり、少数の上兵(騎馬武者)を除けば、ほとんど烏合の衆と変わらない。 そして戦闘員と一般農民の区別がまだ生じていなかった為に、当時の関東の合戦は、敵の本拠地、「営所」を攻撃するだけでなく、「与力伴類の舎宅、員(かず)の如く焼き払う」という焦土戦術がとられた。これは、当時の関東では土地はいくらでもあり、要は土地を耕す労働力の編成が問題なのであって、敵を滅ぼすとは、その敵の兵力であり、同時に労働力であるそれら与力伴類にダメージを与えて四散させることが重要であったのである。 この状態は、平将門の乱(930年-931年)から100年後の平忠常の乱(1028年-1031年)においても変わらず、それが故に平忠常の乱は近隣数ヶ国が「亡国」となり、朝廷はその復興の為に4年間も官物を免除しなければならなかったほどである。 安田元久などの旧来の学説では、在地経営が私営田経営であった平将門から平忠常の時代は、「兵」の時代であって、「武士」はその次ぎの段階であるとする。確かにこの時代の戦闘の様式は中世武士団による戦闘の様式とは大きく異なる。
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