私募債とブロック取引
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 03:55 UTC 版)
「ソロモン・ブラザーズ」の記事における「私募債とブロック取引」の解説
1951年、創業者次男のハーバートが死亡した。私募債専門家ルドルフ(Rudolf Smutny, 1897-1974)がソロモン・ブラザーズの新たな指導者となった。彼は1957-66年に10億ドル以上の私募債発行を手がけたという。1969年にはデュポン・グロア・フォーガン(DuPont, Glore Forgan & Co.)に参加した。1962年キューバ危機で市場が麻痺していたとき、ソロモン・ブラザーズはAT&T社債2.18億ドルの発行を引受けた。1960年代、ニューヨーク証券取引所がオートメーション化してゆくとき、ボストン取引所などの会員権を得て、1969年の株価下落では(店頭ブロック取引によって)M&Aブームをもたらした。 私募債発行業務はお得意様待遇、いわゆるリレーションシップ・バンキング(リレバン)の外観を呈していた。1970年ニューヨーク証券取引所が所属する会員に公企業として活動することを容認し、加えて1978年にはチャンドラ倒産法(Chandler Act)が緩くなって、銀行も企業再編に参加できるようになった(Bankruptcy Reform Act of 1978)。ソロモンをふくむ投資銀行はルートセールスでやっていけなくなり、ブロック取引や公社債引受といった戦略へ切り替え出した。 1970年頃から計量分析アナリスト(quants, quantitative analyst)や数理モデルを駆使したトレード手法をウォール街でいち早く導入した。主要アナリストはシドニー・ホーマー(Sidney Homer)とヘンリー・カウフマン(Henry Kaufman)であった。ホーマーは1923年にエクイタブル生命でキャリアをスタートして、1943-45年レオ・クローリー(Leo Crowley)の外国経済局(Foreign Economic Administration)で働いた。外国経済局はレンドリース管理局の後継であった。カウフマンはソロモンに来るまでニューヨーク連邦準備銀行のエコノミストをやっていた。ソロモンへ来てからは政策批判をくりかえした。 ウィリアム・サイモンは当時のパートナーであったが、ブロック取引のやりすぎで市場のうまみがなくなってゆき、1975年ニューヨークが財政破綻してしまった。サイモンは財務長官としての立場から、ワシントン州が「懲罰的」ベイルアウトを組成するなどと述べた。そこで自治体引受公社(Municipal Assistance Corporation)が創設され、その公社債をソロモンはモルガン・ギャランティ・トラストに付き添って引受けた。1976年にはGEICO、1979年にはクライスラーを救済した。
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