私塾立命館閉鎖後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 08:51 UTC 版)
フランス留学から帰国した西園寺は、東洋自由新聞社長を経て政界入りするが、その間も教育に対する情熱を失うことはなかった。明治13年(1880年)には岸本辰雄、宮城浩蔵、矢代操らが仏法学系の明治法律学校を設立するのを援助したほか、明治27年(1894年)文部大臣に就任すると井上毅らが作った「教育勅語」に反対し、明治天皇から「教育勅語」改定の許可を得て、第二の教育勅語の草案作成にも取り組んでいる。結局、西園寺の大臣退任により教育勅語の改正実現には至らなかったが、「もっとリベラルの方へ向けて教育の方針を立つべきものだと思った」と回想している(白柳秀湖『西園寺公望伝』)。また文部大臣として、東京帝国大学に対して「自由」な校風の帝国大学を作ろうと「京都帝国大学」の創設を実現している。京都帝国大学の創設には、終生側近として仕える文部省官僚・中川小十郎が初代事務局長としてその中心的役割を担っている。この他、明治34年(1901年)、「女子を先ず人として教育する」の理念のもと成瀬仁蔵が創設する日本女子大学の設立発起人にも名を連ねている。
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