福田 (阿見町)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 05:22 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動福田 | |
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北緯35度58分52.2秒 東経140度12分24.37秒 / 北緯35.981167度 東経140.2067694度 | |
国 |
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都道府県 |
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郡 | 稲敷郡 |
市町村 |
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地区 | 朝日地区 |
人口 | |
• 合計 | 457人 |
等時帯 | UTC+9 (日本標準時) |
郵便番号 |
300-1156 |
市外局番 | 029[2] |
ナンバープレート | 土浦 |
福田(ふくだ)は、茨城県稲敷郡阿見町の大字[3]。郵便番号は300-1156。2017年(平成29年)8月1日現在の人口は457人[1]。
地理
小野川の支流、乙戸川中流域に位置する[3]。阿見町の西部、朝日地区にあたる。北で上長、東で吉原、南東で牛久市久野町、南西で牛久市福田町、西で小池と接する。主に競走馬を育てる牧場と農地が大半を占めるが、一部には工業用地も整備されている。「福田の馬鹿祭り」と呼ばれる奇祭で知られる[4]。
河川
- 乙戸川
歴史
鎌倉時代には常陸国信太荘に福田郷があり、元徳元年(1329年)11月の地頭代官良円が提出した結解状に「常陸国信太上条内五ヶ郷大村・吉原〈惣領分〉、福田・竹岡・荒川〈庶子分〉京進絹代、正中二、嘉暦元、二、三以上四ヶ年結解事」とある[3]。文禄年間の太閤検地を機に信太郡に属し信太郡福田村となった[3]。慶長11年(1606年)より江戸時代を通じて陸奥仙台藩の知行となった[3]。天明8年から牛久宿の加助郷差村となった[3]。助郷高は179石[3]。村高は慶長年間の「常州知行目録」・「元禄郷帳」で397石余、「天保郷帳」・「旧高旧領取調帳」では457石余[3]。福田村は明治4年(1871年)には廃藩置県により土浦県、同年の府県統合で新治県に、1875年(明治8年)より茨城県に所属、1889年(明治22年)の町村制施行により小池村・上長村・実穀村・吉原村・荒川沖村・荒川本郷村・沖新田と合併し朝日村の大字となった[3]。1955年(昭和30年)、町村合併により阿見町の大字となる[3]。1957年(昭和32年)には一部(向原開拓)を牛久町に編入、翌1958年には再び一部を牛久町に編入した[3]。
地名の由来
沿革
- 慶長11年(1606年) - 仙台藩の知行となる。
- 明治4年(1871年) - 新治県に属する。
- 1875年(明治8年) - 茨城県に属する。
- 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により朝日村の大字福田となる。
- 1955年(昭和30年)11月3日 - 合併により阿見町大字福田となる。
- 1957年(昭和32年) - 牛久町に一部を編入される。
- 1958年(昭和32年) - 牛久町にさらに一部を編入される。
交通
鉄道
地内に鉄道は通っていない。
バス
地内にバス停留所「福田」があり、そこを始発・終着とするバスが関東鉄道(2001年以前は茨城観光自動車)によって運行されている。 朝7時台に土浦駅を経由して土浦市の合同庁舎まで行くバスが1本、夕方には土浦駅始発のバスが2本運行されているが、現状として地内に住む小学生・中学生・高校生のスクールバスとなっており、休校日には途中の阿見中央公民館発着となり、福田までは乗り入れない[5]。
道路
- 首都圏中央連絡自動車道(圏央道) - 北端を通る。出入口は設置されていない。
施設
- 福田農村集落センター
- 武田牧場 - 競走馬の育成・休養が行われている。
- 内藤牧場 - 競走馬の育成・休養が行われている。
- 鹿島神社
- 高照寺 - 天台宗の寺院。天喜3年(1055年)の創立と伝えられる[3]。
- 阿弥陀堂
- イーグルポイントゴルフクラブ
祭事
- 福田の馬鹿祭り - 旧暦11月15日から16日にかけて行われる収穫感謝祭の一種で、地内の鹿島神社で江戸時代から続く性器を崇拝し祀ることにより多産と豊穣を祈願する奇祭として知られ、祭りの奇抜さから「馬鹿祭り」の名称で知られた[4]。大根で拵えた男根と女陰・腹合わせに用いる雌雄の鯉・「家内安全」「天下泰平」と書かれた万灯・ヒョットコとオカメの面及び衣装が用いられ、宴席の場で紐で結ばれた二人が腰を振りながら踊る[4]。
脚注
関連項目
外部リンク
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上長 | ![]() | ||
小池 | ![]() |
吉原 | ||
![]() ![]() | ||||
![]() | ||||
牛久市福田町 | 牛久市久野町 |
「福田 (阿見町)」の例文・使い方・用例・文例
- 私、株式会社福田製薬の総務部の阿部と申します。
- 福田さんの家へちょっとよって行こう。
- 彼は福田派に属していました。
- 福田教授はバイオテクノロジーの分野で優れた業績をあげている.
- 福田康(やす)夫(お)内閣官房長官は5月7日の記者会見で辞任を表明した。
- 福田氏を含む7人の閣僚が,義務づけられている国民年金の保険料を納めていなかったと認めた。
- 4月23日に,福田氏は60歳の時点で保険料を支払っていたと述べた。
- その後4月28日には,福田氏は3年1か月間保険料を支払っていなかったことを認めた。
- 5月7日に発売された週刊誌は,福田氏が実際は5年8か月間保険料を納めていなかったと報じた。
- これは福田氏が石油会社を退職した後,衆議院議員になる前の13年間のことだった。
- 福田氏は自分が国民の政治への信頼を弱めたと認めている。
- 福田首相が拉(ら)致(ち)被害者家族と会談
- 10月26日,福田康(やす)夫(お)首相は北朝鮮によって拉(ら)致(ち)された日本人の家族と首相として初めて面会した。
- 面会で,福田首相は被害者家族との関係を改善したいと強調し,「私はかつて対話を重視しすぎると非難された。しかし,この問題についてみなさんを本当に助けたいと思っている。」と話した。
- 当時の官房長官だった福田氏は,拉致被害者のうち一部はすでに死亡したという北朝鮮のメッセージを家族に伝えた。
- 福田氏は対話重視の姿勢を続け,このことが被害者家族の不信を招いた。
- 被害者家族の代表である横田滋(しげる)さんは,福田首相との面会後に「これほど長いこう着状態を経て,事態が好転することを期待している。」と話した。
- 被害者家族のもう1人の代表である飯(いい)塚(づか)繁(しげ)雄(お)さんは,福田首相がこの問題の追求にそれほど熱心であるように感じられなかったと話した。
- 福田首相が辞意を表明
- 9月1日,福田康(やす)夫(お)首相が記者会見を開き,突然辞意を表明した。
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