神輿の起源とは? わかりやすく解説

神輿の起源

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 08:10 UTC 版)

神輿」の記事における「神輿の起源」の解説

諸説あるが、そのうち1つとして以下のような説がある。 狩猟採集による移住繰り返した時代行われた収穫祭祭壇起源で、このときは祭りが終わると神輿取り壊され毎年新たな神輿作って天上の神を招いていた。農耕始まり人々定住するうになると、神に対して定住求められるようになり、居所としての神社誕生した。そして神の乗り物として神輿継承され現在のような形になった。 この説を採用した観光協会等において、外国人観光客対し神輿は「持ち運び可能な神社」と説明されることが多い。 文献上で初出は、養老四年・天正天皇6年(720年)、隼人征伐の際大神比義命(おおがのひぎのみこと)の子孫、宇佐八幡宮神官、祝の大神諸男八幡神乗った御神輿付き添い禰宜大神杜女御杖代同じく禰宜辛島波豆米が御杖人となり大隈日向行幸している。この時の御神輿国内初の御神輿である。この時、祝の大神諸男が“我、昔、このを御として、百王守護誓い発した百王守護とは、凶賊降伏せしむるという事である”との御神託大貞の池(三角池薦神社)でうける。この池のマコモ大神諸男造った御薦が、先の国内初の御神輿載せた御神体である。 奈良時代元正天皇治世養老4年720年九州起こった隼人の乱」にあるという。同年2月九州南部大隅薩摩に住む隼人は、大隅国守・陽侯麻呂殺害して反乱起こした朝廷歌人としても有名な大伴旅人を征隼人持節大将軍任命し1万を超す軍隊派兵した。この時、朝廷宇佐八幡宮勅使派遣し国家鎮護隼人討伐祈願した当時は、今の大分県宇佐市小倉山でなく、近く小山田鎮座していた八幡神は、この願い応じ、「われ征きて降し伏すべし。みずから神軍率いて隼人討伐赴く」と託宣下した朝廷豊前国司(ぶぜんこくし)宇努首男人(うぬのおびとおひと)に命じ八幡神神霊乗る神輿を作らせた。『八幡宇佐宮御託宣集によれば、「豊前国司に仰せつけられ初め神輿を作らしむ」とある[要出典]。 聖武天皇奈良東大寺を建て、毘盧舎那仏奈良の大仏)を建立して国の象徴として建設にあたる時、天平勝宝元年749年)に、これを助けるために、宇佐八幡神は、屋根金色鳳凰が輝く天皇乗り物鳳輦)に乗って奈良の都へと渡御した。この鳳輦こそが、1300年歳月経て今に伝わる神輿原型である。 平安時代になると、近江日吉大社京都祇園社(現・八坂神社)・今宮神社北野天満宮や、大阪大阪天満宮などでも神輿作られた。鳳輦をもとにして、これに魔除け巴紋神紋飾りミニチュア神社のように鳥居玉垣高欄などが付けられた。こうして、主に奈良・京都を中心にして神輿一般化された。

※この「神輿の起源」の解説は、「神輿」の解説の一部です。
「神輿の起源」を含む「神輿」の記事については、「神輿」の概要を参照ください。

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