社会学的分類
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 14:56 UTC 版)
TM運動は様々な特徴をもっており、精神的運動、新しい社会的運動と呼ばれる一方、宗教と呼ばれることもある。 超越瞑想側は、超越瞑想は宗教ではないと主張している。実践するために何かを信仰したり、特定の信念を持ったりする必要はなく、意識を扱うテクニックであり、自己実現を促す方法であると述べている。マハリシは、「神経系を強化し正常に働かせるための簡単で自然な技術」であり、家庭人は向かないラージャ・ヨーガ(沈思黙考によって悟りに至る道、古典ヨーガ)と異なり、家庭人でも資質によらず機械的に悟りに至ることができる道、悟りへの王道であると述べている。 超越瞑想の団体は、普及運動の初期には宗教的な団体として公けに登録されていたが、現在では宗教と関連付けられることを嫌っており、超越瞑想は科学的に効果が実証されたテクニックであると主張されている。一方、超越瞑想は非宗教的な治療的瞑想と言えるかどうかが問題になる程度に伝統的な宗教の条件を備えており、ほとんどの学問的評価では宗教運動の一つと考えられている。超越瞑想の組織は「超越瞑想教会」と訳されることもある。ランカスター大学教授クリストファー・パートリッジ(英語版)は、自著『現代世界宗教事典』の「インドの宗教起源の新宗教、セクト、代替スピリチュアリティ」の章で超越瞑想を取り上げており、クリシュナ意識国際協会による「ハレ・クリシュナ」運動などと同じく、インド・ヒンズー教の流れを汲む運動である。 超越瞑想がセクトまたはカルトに含まれるかについては意見が分かれている。(セクト、カルトという言葉の定義自体にも議論がある。)元々普及組織は精神復興運動(SRM)を名乗っており、人間性回復運動の1つともいわれる。法学者の大石眞は、キリスト教的なセクトが持っていた社会的な性格は持たず、いわば個人の自己実現に力点を置いていると述べている。1990年に出版された「Cults: The Battle for God」の中で、著者のハリソン・シャーリーは、様々な宗教や精神的運動に関わる人々と直接会い、それらの組織について調査した結果、「カルトの監視人達によって定義される『カルトの特徴』は、超越瞑想には全く見られなかった」と記した。アメリカの宗教社会学者ロバート・ニーリー・ベラーは1976年の文献において、人間性回復運動や超越瞑想のようなグループについて、それらは一時的な例外はあるけれども集団がメンバーシップ制でないこと、そして教祖が組織リーダーというよりカリスマ的ヒーラーもしくは教師と見られることが多いという点から、一般的に言って、セクトというよりはカルトとして見られるものだろうと分析している。イギリスの宗教社会学者ブライアン・R・ウィルソンは1982年の著作において、新大陸で誕生した諸団体 と並んで、超越瞑想をセクト主義運動として分析している。 フランスではセクトと呼ばれる運動に含まれている。オウム真理教事件に驚愕したフランスでは、事件の翌年1995年にフランス議会が「セクト調査委員会」を設置し(宗教研究家は参加していない)、1996年「フランスのセクト」という議会報告書が公表された。172の団体が挙げられており、超越瞑想が含まれていた。(中野毅は、この一連の政治的キャンペーンで「セクト」と断定された団体は、いずれもが正統派キリスト教会と異なる新宗教であり、反セクト運動や反セクト法の制定はナショナリズムが背景にあり、非フランス的な文化を極力排除しようとする文化ナショナリズムの一変形であると指摘している。)ロシアでは、ロシア正教会主教会議決定「偽キリスト教セクト、新異教主義、オカルティズムについて」(1994年12月)で問題視する宗教団体が挙げられたが、これには超越瞑想が含まれていた。ドイツでは、国の報告書で「若者宗教」 ないし「若者セクト」と呼ばれ、心身への危険性が国民に向けて示され(1980年)、その正統性が裁判で争われた。アメリカのシカゴにあったカルトを監視する市民団体カルト・アウェアネス・ネットワーク(CAN:Cult Awareness Network)は、超越瞑想の動きを追跡していた(カルト・アウェアネス・ネットワークは行き過ぎた活動で知られ、キリスト教新宗派のペンテコステ派信者から提訴され、懲罰的賠償金110万ドルが科せられて1996年に破産している。)アメリカでは超越瞑想は宗教であるという判決が出されており、直接政治に参加することはできない。
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