破滅への予兆
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「ラヴレンチー・ベリヤ」の記事における「破滅への予兆」の解説
1946年にベリヤはNKVDの議長職から離れたが、スターリンのもとで副首相として国家の治安の全般的な監督をし続けた。だがベリヤの後任となるNKVDのセルゲイ・クルグロフ議長はベリヤの“子分”ではなかった。さらに同年の夏にはベリヤに忠実なメルクーロフがアバクーモフにMGB長官を取って代わられた。クルグロフとアバクーモフは、着任早々治安警察機構の指導部をベリヤ一派以外の人物に置き換えた。その結果ベリヤが掌握している外国諜報部門を除いて、ベリヤ派として生き残ったのはMVD長官代理であるマームロフのみとなった。アバクーモフは重要な業務をベリヤに相談せず、しばしばアンドレイ・ジダーノフと協力して、時にはスターリンの直々の指示のもとに実行するようになった。ある歴史家[誰?]は、最初は間接的に、しかし時と共に直接的になっていったこれら一連の動きはベリヤを攻撃するためであったと述べている[要出典]。ベリヤ攻撃の最初の具体的な動きは1946年10月の「ユダヤ反ファシスト委員事件」で始まった。 この事件は最終的にソロモン・ミホエルスの殺害と、他の多くの委員のメンバーの逮捕にまで発展した。この事件はベリヤの権勢に大きな悪影響を及ぼした。彼がこの委員の1942年の創設者であったというだけでなく、彼の取り巻き連中が、この委員の実質的なユダヤ人メンバーに含まれていたためである。ジダーノフが1948年に突然死去すると、ベリヤとマレンコフは共同して、ジダーノフ関係者の粛清を開始した。この事件は、「レニングラード事件」として知られ、2000人以上の人間が処刑された。その中にはジダーノフの代理を務めたアレクセイ・クズネツォフ(Aleksei Kuznetsov)、経済問題のリーダーのニコライ・ヴォズネセンスキー、レニングラード党筆頭、ピョートル・ポポフ、ロシア共和国首相ミハイル・ロジーノフらがいる。 ニキータ・フルシチョフがベリヤとマレンコフへの対抗馬として台頭するのは、ジダーノフの死後である。ジダーノフの死後も反ユダヤキャンペーンは収まらなかった。第二次大戦後の数年間、ベリヤは東欧諸国におけるソヴィエト様式の秘密警察の創設を指揮し、そのリーダーを直接任命したが、これらのリーダーの多くはユダヤ人が占めていた。1948年初め、アバクモーフはこれらのユダヤ人リーダーたちの調査を開始し、ついに1951年11月、プラハにおいてルドルフ・スラーンスキー、ベルドジッヒ・ゲミンデルとその一派が逮捕された。彼らの嫌疑は、総じてシオニズムとコスモポリタニズムであったが、より実質的な嫌疑は、彼らがチェコスロバキアを経由してイスラエルへ武器を供与した、というものであった。ベリヤの立場からすると、この武器供与の嫌疑が最も危険であった。イスラエルへの莫大な援助は、彼の直接の指示によるものだったからである。最終的に、チェコスロバキアの14人のリーダーと11人のユダヤ人が、プラハにおいて裁判にかけられて有罪判決を受けて処刑された。これがプラハ裁判である(同様の調査が、ポーランドやソヴィエトの衛星共和国で進行していた)。 その頃、アバクーモフの後任にセミョーン・イグナチェフが就任した。イグナチェフは、反ユダヤキャンペーンをいっそう強化した。1953年1月13日、プラウダの報道により、ソヴィエトにおける最大規模の反ユダヤ事件が幕を開けた。これは、後に“医師団陰謀事件”として知られる。国内の著名なユダヤ人医師たちの一部が「ソヴィエトの首脳を毒殺した」という理由で告訴・逮捕された。これと平行してヒステリックな反ユダヤプロパガンダキャンペーンが、ソヴィエトのマスメディアを通じて溢れた。最初に37人の医師(内17人がユダヤ人)が逮捕され、逮捕者は数百人にまで伸びた。ソヴィエト国内のユダヤ人の多くは、自分の仕事を解雇されるか、逮捕されるか、強制収容所に連行されるか、処刑された。このとき、スターリンの命令により、MGBはソビエト国内の全ユダヤ人をロシア極東へ強制移住させるか、あるいは虐殺する準備を始めたと主張されている。 さらに、1950年代初めに勃発した「ミングレル事件」(Mingrelian Affair)により、スターリンのベリヤに対する不信感はますます増大する。この事件で、ベリヤと同じミングレル人の党員が標的にされ、グルジアSSRにより粛清された。この事件の影響で、ベリヤの出身地であるグルジア共和国での権力は低下した。そのうえ、ベリヤの性的無分別さの蓄積によって、ベリヤの前任者であるヤゴーダとエジョフのように、スターリンがベリヤを積極的に処分しようとする様子も見られた。 1953年3月1日、スターリンは、フルシチョフ、マレンコフ、ブルガーニン、ベリヤとの徹夜での夕食の夜に倒れ、その4日後の3月5日に死去した。なお、スターリンの死に関しては、決定的な証拠は存在しないものの、1953年当時からベリヤら幹部による謀殺説が根強く存在している。1993年に出版されたヴャチェスラフ・モロトフの政治回顧録によると、ベリヤはモロトフに対し、スターリンに毒を盛ったことを自慢したとされる。ロシアの作家エドワード・ラジンスキーの著書『スターリン』にもこのことは記述されており、公表される兆候もあったという。モロトフの回顧録は、新たに公開された膨大なロシアの機密文書、スターリンの元ボディガードが出版した回想録、その他のデータに基づいたものである。スターリンが意識不明の状態で発見されてから数時間、医師の助けが拒否されたことや、治療にワルファリンが使用されたことが示唆されたことも報告されている。2006年、ロシアの週刊誌にて、ロシア公文書館でスターリン暗殺説を裏付ける有力な証拠が発見されたと報じられた。その文書記録によると、内容は、倒れたスターリンに対する治療が毒物接種時に施される物で、当初言われていた症状での治療法では絶対にあり得ない治療法を施していたことなどが記されていた。
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