相沢事件
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1935年8月12日白昼に、国体原理派の一員であり、真崎大将の友人であった相沢三郎中佐が、報復として統制派の中心人物、永田鉄山陸軍省軍務局長を殺害する事件を起こした(相沢事件)。1936年1月下旬に始まった相沢の公判では、相沢と国体原理派の指導者たちが裁判官とも共謀して、彼らの主張を放送するための講演会のようにしてしまったため、報道は過熱した。マスコミにおける相沢の支持者たちは、相沢の「道徳と愛国心」を称賛し、相沢自身は「真の国体原理に基づいて軍と国家を改革しようとした純粋な武士」と見なされるようになっていった。
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相沢事件
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「相沢事件」も参照 1935年(昭和10年)7月15日に真崎甚三郎が教育総監を更迭された。これに不満を持った真崎は自身の更迭の経緯を文書にして皇道派青年将校に配布した。これを読んだ相沢は憤激し、永田鉄山軍務局長が陰謀の首魁であると考え、上京し永田に面会を求め辞任を勧告したが、逆に諭され満足して福山へ戻った。この頃、相沢は常軌を逸した振る舞いが目立ったため、定期異動において同年8月1日、台湾歩兵第1連隊付で台北高等商業学校配属将校となった。同年8月12日に千駄ヶ谷の西田税宅に一泊した後、陸軍省の山岡重厚整備局長に異動の挨拶をおこなったその足で永田鉄山軍務局長を訪れ、斬撃と刺突を加えて殺害した。
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相沢事件
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「相沢事件」も参照 1934年(昭和9年)11月に陸軍士官学校事件が起こる。村中孝次大尉、磯部浅一一等主計をはじめ青年将校らは、「これは、我々を陥れる辻政信大尉と片倉衷少佐による陰謀であり、永田が暗躍しており、真崎教育総監の失脚を目論む統制派の陰謀である」と主張した。 青年将校らの政治策動を封じるために、少なくとも真崎大将の教育総監は退いてもらわねばならないという議論が、武藤章中佐や池田純久中佐といった統制派を中心に起こり、「多少の波乱があっても、それを覚悟しても断行せねばなるまい。波乱といっても大したこともあるまい」という結論に達した。 そこで永田軍務局長は陸軍大臣の林銑十郎大将に真崎大将転補のことを相談すると、林陸軍大臣は真崎大将の転補を断行することを決意した。 1935年(昭和10年)7月15日の異動において真崎教育総監が更迭された事が、あたかも永田の暗躍ないし陰謀によるもので、統帥権の干犯であるかのように皇道派に喧伝された。 それを真に受けた歩兵第41連隊付の相沢三郎中佐は、同年7月19日に有末精三中佐の紹介により永田に面会し辞職を迫った。 同年8月12日、その相沢に軍務局長室で殺害された。51歳没。
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相沢事件
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1935年8月12日に発生した相沢事件において、殺害された永田鉄山軍務局長と、東京憲兵隊長・新見英夫大佐と共に在室していた。新見大佐は、永田をかばって相沢三郎中佐に斬りつけられ、重傷を負ったが、山田大佐は局長室から姿を消していた。そのため事件後、軍内部及び世間から批判を受け、山田は事件から約2ヶ月後の10月5日に「不徳の致すところ」という遺書を残し、自宅で自決した。
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