監視委員会結成
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「反ファシズム知識人監視委員会」の記事における「監視委員会結成」の解説
1934年3月5日にパリ7区で行われた集会で共産党員の参加を得て、監視委員会が結成され、「労働者へ」と題する呼びかけを発表。スタヴィスキー疑獄事件と2月6日の騒擾事件に触れ、「汚職・腐敗と闘おう」、抑圧的、好戦的、独裁的ファシストから「我々が権利と自由によって勝ち取ったものを守ろう」と訴えた。この段階では、仮事務局を設置し、ヴァルテルが事務局長、トロカデロ民族誌博物館(フランス語版)の館長で民族学者のポール・リヴェ(後に人類博物館を設立)が会長に就任しただけで、名称も「監視委員会」であったが、3月12日に正式名称を「反ファシズム知識人監視委員会」として正式に発足。哲学者・作家のアランと物理学者のポール・ランジュヴァンが副会長を務めた。ただし、アランは会議には出席せず、弟子のミシェル・アレクサンドルが副会長代理を務めた。ヴァルテルは妻で画家のズーム・ヴァルテル(フランス語版)とともに物品の調達から事務手続きまで一手に引き受けた。 会長ポール・リヴェ 副会長アラン 副会長ポール・ランジュヴァン 正式発足後にマニフェストを配布し、「パリおよび地方のすべての教育機関の教員、あらゆる分野の知識人」に「即刻参加するよう」呼びかけた。また、仮事務局は会員14人によって構成されること、労働者組織と密接に連携すること、このために、仮の指導連絡所を設置すること、すでに同様の組織に属している教員・知識人が参加することで、組織間の連携を図ることなどが明記されている。このマニフェストはすでに約200人の知識人・教員の署名を集め、高等師範学校の学生も70人ほど参加しているが、1934年末には会員が6,000人に達し、各地に支部も設立された。また、社会党、共産党、急進社会党が結成した人民連合全国委員会の人民戦線計画の策定に参加し、同年7月14日(フランス革命記念日)には、社会党、共産党、急進社会党の呼びかけで、労働総同盟などの労働組合、人権連盟、反ファシズム知識人監視委員会およびその他の反ファシズム団体が「パンと平和と自由」をスローガンにパリに集結し、ファシズム勢力に対抗する共同戦線「人民戦線」の結成につながった。 反ファシズム知識人監視委員会は、機関紙『監視(ヴィジランス)』を発行し、定期的に集会を行うほか、重要な問題についてパンフレットを作成し、啓発活動を行った。パンフレットには「クロワ・ド・フー」、「ファシズムの社会的主張」、「戦争は不可避ではない」、「ファシズムに直面する若者たち」、「イタリアのファシズム」、「スペインのファシズム」、「人民戦線の平和と連合」、「第一次・第二次人民戦線計画」、「国防の矛盾」、「労働組合運動の現在の課題」、「フランコと報道」、「ドイツのヒトラー主義」、「フランスと植民地問題」などの問題を論じた。 1935年から1936年にかけてムッソリーニ独裁政権下のイタリアがエチオピアに侵攻すると(第二次エチオピア戦争)、これを支持する極右アクション・フランセーズのアンリ・マシス(フランス語版)「西欧の擁護」宣言を発表。多くの右派・極右知識人が名を連ねていた。これに対して反ファシズム知識人監視委員会は、率先してイタリアに対する制裁を求めるなど、自由・平和に対する脅威と闘う統一行動を組織した。
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