盗聴・侵入の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:52 UTC 版)
「ウォーターゲート事件」の記事における「盗聴・侵入の背景」の解説
1972年6月という時点は、この年2月のニクソン訪中で米中の間でかつての厳しい対立から実務的に対話ができて強固な米中関係に進むことで、ベトナム戦争の終わりが見えてきた時期である。また5月のニクソン訪ソによってそれまでの米ソ協調体制がさらに順調に進み、ケネディ大統領の時代と異なる東西の緊張緩和(米ソデタント)を迎え、ニクソン外交が最も華やかに展開された時期でもある。また内政では前年夏のニクソン・ショックで懸案であったドルの切り下げを各国間の通貨の同時調整で実施し、内政・外交とも成果を挙げた時期であった。 しかも1972年大統領選挙は、予備選挙がほぼ終盤で、民主党の本命だったエドマンド・マスキー候補が失速、ジョージ・マクガヴァン候補が浮上して共和党にとってはまず順調に選挙戦が戦える見通しとなった時期である。ニクソンにとっては順風で1971年7月 - 8月のニクソン・ショックから1973年1月のベトナム和平協定成立まで、正に絶頂期を迎えた頃であり、民主党本部を盗聴する必要など全く無かった。これは事件発覚直後でも、ずっと後になって振り返る時でも誰もが考えることであった。 元々この7人が、民主党本部を盗聴するためのチームであったかと言えば、それは違うという結論になる。ニクソン政権になってから内部からの情報漏れによる報道によって外交政策や外交交渉に影響を受ける事態を苦々しく思ったホワイトハウスは1969年に特定の記者や国家安全保障関係者の電話盗聴を命じた。実施したのはFBIで1971年まで続いた。翌1970年にカンボジア侵攻に抗議して全米の大学で学生デモが行われた時に、国内治安のための情報収集活動の強化を目指し、規制を緩めて学生スパイの育成、外国大使館への侵入、郵便物の開封、電話盗聴を行う旨の大統領諮問委員会の勧告が出ていったんは決定したが、フーヴァーFBI長官の猛反対で撤回されている。 その後、1971年に国防総省秘密文書(ペンタゴン・ペーパーズ)がニューヨーク・タイムズにすっぱ抜かれたことから、アメリカ合衆国連邦政府部内からの情報漏洩を防ぐために作ったチームが、The White House Plumbers(英語版)(別名:配管工、plumber unit)と呼ばれる特別調査ユニットであった。情報漏洩調査の対象は、当初のベトナム戦争反戦運動活動家や報道関係者からホワイトハウス職員、そして民主党員に広がる。ゴードン・リディおよびハワード・ハントは、彼らに対して工作をおこなう中心人物だったのである。 ワシントン・ポスト紙の1973年5月17日付けの紙面に、秘密工作に関わった上級レベルの者による、次のような言葉が紹介されている。 ウォーターゲート事件はそれまで長く存続してきた環境から自然に生じた行為だった。それは雰囲気の産物だった。このようなやり方は目新しいものではない。現政権の発足当初から活動はかなり大目にみられてきた。私には国家の安全保障と政治的スパイの限界がよくわからない。
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