皇室と最高裁判所
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1945年8月 東宮大夫、東宮侍従長に就任した。次女・美代子が4歳時から照宮の学友だった縁からという。1933年ころから、皇后、皇太后へ進講している。また、1936年には講書始で「ギールケ著ドイツ団体法論」について進講し、外にも進講した。東宮侍従長人事に関しては、1945年8月7日木戸幸一内大臣が昭和天皇に内奏し、天皇は「穂積とは重遠か、彼ならよし」との言葉があった。日光に疎開していた皇太子を訪れ、終戦を迎えた。当時の日記が残っている。皇太子の帰京には3か月かかった。重遠は、皇太子の教育機関である御学問所の総裁でもあり、東宮御教育参与でもあった。皇太子の家庭教師としてのエリザベス・ヴァイニング起用に関しては、穂積の頭越しの決定だったので、ヴァイニングとはややギクシャクしたものがあった。戦後の重遠は、英国留学時代を思い出し「アワ キング」(Our King) という言葉を使い、皇太子には常に「アワ キング」であって欲しいと思っていたとも言われる。しかし、圧力があり、1949年2月、重遠は最高裁判事に転出した。裁判官任命諮問委員会が廃止されてから初の最高裁判事誕生である。替わって東宮御教育参与になったのは、小泉信三であった。 1937年、帝人事件に際し友人である大久保偵次(当時大蔵省銀行局長)の特別弁護人になったことがあるが、裁判官は初めてであった。任期は4年ほどの予定であったが、予想外の死により2年余りとなった。その間、要求によりアメリカ視察旅行を行っている。最高裁判所時代に刑法200条の違憲説(少数意見)を主張した(昭和25年(1950年)10月11日(尊属傷害致死)及び同年10月25日(尊属殺)の判決)。彼の意見は「孝は百行の基」であるのは新憲法下でも不変であるが、かのナポレオン法典の「子は年齢の如何にかかわらず父母を尊敬せざるべからず」や、殺親罪重罰規定によって、親孝行を強制せんとするは、法律の限界を越境する法律万能思想であって、かえって孝行の美徳の神聖を害するものといってよかろう」というものであった。なお、彼の死後、刑法200条は1973年4月4日の大法廷判決により違憲と判決が下り、1995年に正式に削除された。
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