生い立ち・芸歴
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1898年 - 神奈川県横浜市山下町生まれ。 1913年 - 清元延小家壽(のぶこやす)に師事。 1921年 - 家元・五世清元延壽太夫と三味線方の三世清元梅吉(後の清元壽兵衛)が出演料の分配を巡って不和となり、梅吉が独立。 1923年 - 二世喜久太夫に入門して松喜太夫と名乗り、浅草観音劇場に於ける「喜撰」「吉野山」で初舞台。 1924年 - 延壽太夫の門下に移って初代清元志壽太夫となった。市村座『筆幸』を勤めたのを皮切りに、その年の内に清元延壽太夫の脇を語る。 1926年には大阪弁天座『三社祭』にて初めての立語り。名人として知られた師の晩年の芸をよく吸収し、生れつきの声量、美声と相俟って六代目尾上菊五郎を初めとする役者にも重宝され、着々と実績を積みかさねてゆく。 1938年に五世延壽太夫が病に倒れ、また時を同じくして六世延壽太夫を相続する予定であった四世榮壽太夫が早世したため、その後継者として舞台と社中を支え、戦後は朋輩の清元榮壽郎や清元壽國太夫、清元正壽郎らと協力して若年であった清元延壽太夫(五世の孫、榮壽太夫の子息)を側面から支え、社中を統率し清元節太夫の第一人者として斯界に大きな影響を与えた 1980年 - 5月28日、歌舞伎座で「清元生活六十五年記念演奏会」を開催。 同年、三世今藤長十郎と「芸遊会」を開催。三世今藤長十郎作曲、志壽太夫節付の「豊後道成寺」を披露する。長唄と清元の第一人者の競演で話題を呼んだ。この「豊後道成寺」を見た、四代目中村雀右衛門が主宰する「雀右衛門の会」での上演を申し入れ、2代目藤間勘祖の振付、志壽太夫の浄瑠璃で上演。後に歌舞伎の本興行にも取り上げられ何度も踊っている。 1988年 - 2月27日歌舞伎座で「清元志壽太夫の卆寿の会」を開催。以後、1991年10月の七回目まで「志壽太夫の会」を歌舞伎座で開催。 1997年‐1月「百歳」を記念して、「壽初春大歌舞伎」昼の部のキリ狂言で「清元志壽太夫百寿を祝して 青海波」が上演された。幹部、花形が総出演した。 1998年‐11月「清元延壽太夫清元宗家継承十周年演奏会」が歌舞伎座で行われた。この舞台に出演したのが最後となった。 2005年 - 1月「清元志壽太夫七回忌追善演奏会」が歌舞伎座で開催された。 十八代目中村勘三郎が「玉兎」、七代目尾上菊五郎と、五代目尾上菊之助が「道行初音旅」(吉野山)、四代目中村雀右衛門が「雁金」を踊り、清元延壽太夫 (七世)らで「隅田川」を演奏した。
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