瓦の発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:06 UTC 版)
607年頃の創建と考えられる斑鳩寺では新たに軒平瓦が創作されている。瓦当文様は忍冬をあしらった唐草文で、平坦に成型した瓦当を手彫りして作られているが、間もなく型押しに進化している。平瓦に手彫りで瓦当文様を彫った軒平瓦は中国大陸や朝鮮半島に類例がなく日本独自で発生したものと考えられており、それ以前は軒先にも瓦当のない平瓦が葺かれていたと考えられている。その後、7世紀中頃に軒平瓦を成形する際に、回転させながら溝を彫る重弧文が広く用いられ、7世紀前半に発生していた笵で唐草文をつける方式が7世紀末に主流となり、中世にいたるまで続く。 639年創建の百済大寺では軒丸瓦の瓦当文様の外縁に円形ラインを配した重圏文縁と、花弁に子葉を重ねた単弁が発生した。重圏文縁八葉単弁蓮華文と呼ばれるこのタイプは641年から造営された山田寺に因んで山田寺式といわれるが、日本の各地に広く分布していることが特徴で、畿内から直接あるいは二次的に広がったと考えられており、古代地方寺院の成立の手がかりと考えられている。 7世紀中頃に創建されたと考えられる川原寺では、外縁に鋸の歯のような文様を配する鋸歯文縁と、子葉が二つある複弁が発生した。この鋸歯文縁八葉複弁蓮華文は川原寺式と呼ばれ、全国に広がった。伊勢国額田廃寺や筑紫国観世音寺からは川原寺と同じ工房で作られた瓦が直接運ばれたと考えられ、山背国高麗寺では同笵であるが制作方法が異なる瓦が出土しており、笵だけが流通したものと考えられる。同様に同笵で異なる制作方法で作られた瓦が近江国南滋賀廃寺などから出土しているが、こちらの方が川原寺よりも古く、川原寺式は近江で発生したとする研究者もいる。このように川原寺式が全国に広がった理由は定かではないが、八賀晋の「壬申の乱で大海人皇子に味方した勢力に許された瓦当文様」とする説は著名である。これ以降、複弁蓮華文は多くのバリエーションが生まれ、奈良時代まで主流な瓦当文様となる。 古代寺院特有の瓦として鴟尾がある。鴟尾は法興寺からも発掘されており、瓦の伝来と同時に伝わったと考えられる。奈良時代には瓦製ではなく金銅製に変わったと考えられ出土例が少なく、平安時代以降には鴟尾は姿を消す。鬼瓦も瓦伝来と同時に伝わるが、初期は蓮華文で「華形」と呼称されていたと考えられる。これが邪鬼文に変化するのは8世紀頃で、統一新羅からの影響が指摘されている。屋根を支える木部を雨から保護するために用いられたのが垂木先瓦や桁先瓦などである。垂木先瓦は金銅製に、桁先瓦は懸魚に移り変わって姿を消したと考えられる。また後述する宮殿や薬師寺や興福寺など平城京内の寺院では釉薬瓦が用いられることもあった。 天智天皇は667年に近江に遷都するが、この時代この地域に限定して見られる特異な瓦がある。本瓦と構成は同じであるが、通常は緩やかな曲線を描く平瓦は平たく端部が垂直に立ち上がる凹型、それに被せられる丸瓦の断面も角ばった方形で、方形瓦と呼ばれる。これらは南滋賀廃寺や穴太廃寺で出土し、瓦当文様も通常の真上からみた蓮華を意匠化した蓮華文ではなく、横から見た蓮華を意匠化した側視形蓮華文である。この瓦は中国大陸や朝鮮半島に類型がなく、なせ限られた期間、限られた地域に現れたのか分かっていない。
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