瓦の伝来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:06 UTC 版)
蓮華文軒丸瓦の変遷素弁蓮華文(飛鳥時代:6世紀末葉-7世紀前半頃) 飛鳥寺(飛鳥寺式花組) 飛鳥寺(飛鳥寺式星組) 船橋廃寺(船橋廃寺式) 奥山久米寺(高句麗様式) 坂田寺 単弁蓮華文(白鳳時代前半:7世紀中葉頃) 吉備池廃寺(百済大寺式) 木之本廃寺 山田寺(山田寺式) 坂田寺 複弁蓮華文(白鳳時代後半以降:7世紀後半以降) 川原寺(川原寺式) 藤原宮大極殿(藤原宮式) 平城宮第一次大極殿(平城宮第I期) 平安宮豊楽殿(緑釉軒瓦) 日本を含む東アジアにおいて瓦の出現は中国の西周時代と考えられる。朝鮮半島には4世紀前半の高句麗に伝わったのが最も早く漢代や楽浪郡の影響がみられる。やや遅れて4世紀後半に百済で瓦製作が始まるが、初期には楽浪郡や北魏、6世紀頃からは南朝梁の影響がみられる。新羅においては仏教が公認された5世紀前半から造瓦が始まり、高句麗、百済、南朝梁の影響がみられる。 日本への瓦作りの技術の伝来については、仏教公伝と共に百済からもたらされたとするのが通説である。『日本書紀』や『元興寺伽藍縁起幷流記資財帳』には、587年に発願した法興寺の造営に際し、日本からの求めに応じて百済の威徳王が技術者集団を派遣し、その中に瓦博士(瓦師)4名が含まれていたとあり、法興寺から出土品する瓦も瓦当文様などが扶余のものと共通点が多くこれを裏付けている。彼らは単なる技術者ではなく、職人集団を育成する指導者でもあった。法興寺の創建瓦からは当時の須恵器製作に用いられる道具が使用された痕跡があり、須恵器の工人集団が瓦工として訓練を受けていたと考えられている。法興寺で用いられた瓦は瓦当文様から「花組」「星組」と通称される2種類が確認されており、花組は行基式の赤瓦、星組は玉縁式の黒瓦であるなど、製作技術も異なる点が多く、瓦工集団には二つの流派があったと考えられている。なお訓練を受けた瓦工集団はその後、花組は立部寺、檜隈寺、坂田寺の造営に、星組は豊浦寺、斑鳩寺の造営に関わったことが瓦当文様の研究から分かっている。 ただし、上記より先行して別ルートで九州に伝来していた可能性を指摘する説もある。筑前の神ノ前窯で出土した瓦は那珂遺跡で用いられたことが分かっており、制作方法は須恵器と共通する部分が多く、共伴する器から6世紀末の製作と考えられている。法興寺の瓦と比べて新旧は定かではないが、瓦当文様は無く、技術的にも瓦と異なることから、何らかの理由で大陸の瓦を見聞し、その情報をもとに国内の職人が真似て作ったものと考えられており、後世の瓦作りにも影響を与えなかったと考えられている。 また記録には残されていない別の瓦工集団も渡来したと考えられている。前述の花組、星組とその系統は瓦工の出身地から百済系とも言われるが、豊浦寺で用いられた冬組と称される有稜素弁八葉蓮華文は高句麗系、短い花弁の中央に軸を有する有稜素弁六葉蓮華文は古新羅系と呼ばれ、斑鳩寺などで用いられた忍冬文を配する忍冬蓮華文は統一新羅あるいは高句麗との関連が指摘されている。
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