瓦剌王猛哥帖木児説とは? わかりやすく解説

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瓦剌王猛哥帖木児説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/19 07:14 UTC 版)

オゲチ・ハシハ」の記事における「瓦剌王猛哥帖木児説」の解説

ブヤンデルゲルが主張しており、オゲチ・ハシハ明朝史書記録される瓦剌王」猛哥帖木児(モンケ・テムル)に比定する説。ブヤンデルゲルはモンゴル年代記の記すエルベク・ハーンを巡る争いオイラト部族連合内のクビライ家派(チョロースゴーハイ太尉)と親アリク・ブケ家派(ケレヌートのオゲチ・ハシハ)の抗争捉え、親アリク・ブケ家派のオゲチ・ハシハによってクビライ家のエルベク・ハーン殺されアリク・ブケ家のクン・テムル擁立されたのだと主張したまた、この後のクン・テムル・ハーンとオゲチ・ハシハの死(1402年)も親クビライ家派と親アリク・ブケ家派の抗争の中でゴーハイ太尉息子バトラ丞相によってもたらされものとする明朝の記録では「韃靼可汗帖木児=クン・テムル・ハーン」と「瓦剌王猛帖木児」が並立して記されており、クン・テムル擁立者・後ろ盾が「オイラトモンケ・テムルであったことを示唆する。そこで、ブヤンデルゲルは「オイラトモンケ・テムル」と「オイラトのケレヌートのオゲチ・ハシハ」が同一人物であり、クン・テムル・ハーンの治世オゲチ・ハシハモンケ・テムル後ろ盾の下成立したのだと論じたまた、『蒙古源流』にはオゲチ・ハシハ息子エセクハーン即位した記されるが、これはオイラダイ・ハーン事跡混同したものと考えられている。同時代明朝史料には「賢義王太平」と称されるモンゴル人首長がいたが、「太平」のモンゴル語訳はエセク(Esekü)に相当するため、ブヤンデルゲルは賢義王太平こそがオゲチ・ハシハ息子で、「オイラトのケレヌート」の統治者であると指摘した

※この「瓦剌王猛哥帖木児説」の解説は、「オゲチ・ハシハ」の解説の一部です。
「瓦剌王猛哥帖木児説」を含む「オゲチ・ハシハ」の記事については、「オゲチ・ハシハ」の概要を参照ください。

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