無線報時のはじまり
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1911年(明治44年)12月無線電信法による標準時の艦船への通報を実験的に実施。東京天文台が陸上連絡電線により銚子無線局(識別信号:JJC、周波数:500kc)に中央標準時を伝え、電波を発射する方法により、毎日午後9時が通報されるようになった。 1912年(大正元年)9月JJCの無線報時が正式業務として開始される。 1919年(大正8年)国際報時局(BIH、現 国際地球回転・基準系事業)が設立される。 1921年(大正10年)11月24日東京天文台官制(大正10年・勅令第450号)が制定され、東京天文台は天文学に関する事項を攻究し天象観測、暦書編製、時の測定、報時及時計の検定に関する事務を掌ることが定められた。 1922年(大正11年)第1回の国際的な経度測量を行うことが決まり、臨時的に毎日午後11時に学用報時が船橋局から放送された。これが、学用形式のJJC報時の始まりとなる。 1924年(大正13年)4月測地学委員会(現 文部科学省 科学技術・学術審議会 測地学分科会)が、東京天文台構内に三鷹国際報時所を設けて国際無線報時の受信と時刻の国際共同研究事業に参加する。国際報時は長波によって行われた。当時は、±0.01秒までの精度が得られれば上等だった。 1925年(大正14年)6月正式に学用形式によるJJC報時が放送されるようになった。定刻報時は学用式と大衆向けの日本式の2形式である。 当年内国際天文学連合(IAU)と国際測地学・地球物理学連合(IUGG)の主催で、国際報時局(BIH、現IERS)が中央局となって第1回万国経度観測が実施された。無線報時の利用によって、当時予想していなかった高精度(±0.001秒台)が可能なことが示される。このとき確立された国際的な観測網に基づき、国際協力事業として各地の時刻が総合されている(確定世界時)。 1933年(昭和8年)±0.001秒の確度を目標に準備が整えられて、第2回万国経度観測が実施される。そのとき日本の成績は世界でもトップクラスであった。このとき使用された諸機械は、第一次世界大戦の賠償としてドイツから輸入したバンベルヒ子午儀、リーフラー振り子時計、テレフンケン長波受信機などの一流品であった。 1948年(昭和23年)三鷹国際報時所が東京天文台に併合される。 1948年(昭和23年)ころ、東京天文台の時計室にはリーフラー製の天文用振り子時計が南向きと東向きに据え付けてあった。小さな地震でも狂うので、クロノグラフを描かせてクロノメーターと比較し、歩度の変化があれば調整が実施された。この時計室の真上に報時室があり、2台のルロア型の発信時計から報時信号が出された。なお、当時の報時は、午前11時と午後9時、および午後4時半の3回、JJCの発信符号による無線報時のほか、正午に有線の報時を行っていた。報時は、最も新しい観測値からリーフラー時計の誤差をもとめ、その値を報時の時刻まで外挿し、発信時計に合わせて行われた。また、梅雨時などに観測が連続してできない場合は、外国報時を参考にした。当時は、戦争による物資の不足や装置の劣化の影響により、無線報時の精度が劣化しており、国際報時局(BIH、現IERS)の報告に JJC の修正値が0.1秒を超えなければ良い方であった。
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