無人島渡航計画
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無人島である現在の小笠原諸島の存在が日本に知られるようになったのは寛文10年(1670年)のことで、延宝3年(1675年)に幕府は探検船を派遣して調査し領有を宣言した。当時は長崎に来航する唐船を模して建造されたジャンク様式の航洋船が長崎にたまたま1隻あり、朱印船貿易時代の航海術にくわしい船頭もいたからだが、18世紀にはそのような船や人も失われており、19世紀に入り幕府の外国への警戒が厳しくなって異国船打払令が発令されると、幕府の無人島に対する姿勢も委縮し硬化していった。無人島の正確な位置さえ誰もわからなくなっており、関心も失われて半ば放置されていた。 そのような中、文政10年(1827年)にイギリスの探検船ブロッサム号(英語版)が父島に来航しイギリス領宣言を行ったが、イギリス政府の正式な承認は得られなかった。天保元年(1830年)には欧米人・ハワイ人など25名が父島に入植している。彼らは島に寄港する捕鯨船に水や食料を売って生活していた。 通説によると、モリソン号事件に象徴される外交問題に頭を悩ませていた幕府にとって、海防と沿岸調査は急務の事案であった。すでに天保9年(1838年)イギリス人の小笠原諸島入植の風説に対応し、幕府は代官・羽倉簡堂を同地の調査に派遣している。また、後に蛮社の獄で連累されることになる下級幕臣・本岐道平が羽倉に同行している。本岐は蘭学に通じた技術者であった。羽倉の友人であった渡辺崋山はこの調査に同行することを藩に願い出て、却下されているとする。 これに対して田中弘之は、羽倉の伊豆諸島巡見は彼の支配地である大島から八丈島までの巡見であり、無人島渡航を命じられた事実はうかがえず、羽倉の無人島渡航は単なる噂に過ぎなかった。当時の和船では八丈島への航海でさえ危険が伴ったのである。崋山は噂を事実と信じて同行を希望したが、彼は西洋人が小笠原島に定住していることを知っていたようで、西洋に肯定的認識を持っていた崋山はそれゆえに最も身近な西洋とも言える無人島への興味と憧れから無人島渡航への同行を希望したものとみられる。そもそも羽倉と崋山の接点は不明で、もし2人が親密な間柄であったなら、無人島渡航の計画がないことを崋山は知らされていただろうとしている。 また、18世紀末以来、松浦静山『甲子夜話』や本多利明『西域物語』などの書物に桃源郷のような無人島の話が載っており、佐藤信淵『混同秘策』では空想的な無人島開発論が書かれており、無人島の噂は流布していたものとみられる。一方で、異国船打払令を発令していた幕府は、日本人と西洋人の接触を厳しく禁じるとともに、西洋への警戒心の緩んだ日本人への警戒を強めていた。 天保の半ばころ、常陸国無量寿寺の住職・順宣とその子息・順道は林子平の『三国通覧図説』や漂流者の日記などを読んで影響を受けたことから、無人島に関心を持ち、現地への渡航という夢を抱くようになった。旅籠山口屋の後見人・金次郎らもこの計画に関心を持っており、他に蒔絵師・山崎秀三郎、御徒隠居・本岐道平、陪臣医師・阿部友進、御普請役の兄・大塚同庵、元旗本家家臣・斉藤次郎兵衛、後に仲間を裏切って鳥居のスパイとなった下級幕臣・花井虎一らもこの計画に参加していた。この無人島渡航計画はもちろん幕府の許可を得たうえで実行することになっていたが、資金をはじめ船や食料の調達など具体的なことは何一つ決まっておらず、無人島に関心のある人々が地図や記録類を集めては夢や期待を語りあっていただけであった。
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