鳥居の暗躍
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流布した『戊戌夢物語』は天保10年(1839年)春ごろには老中・水野忠邦にも達したようで、水野は「モリソン」という人物と『夢物語』の著者の探索を鳥居耀蔵に命じた。4月19日、鳥居は配下の小笠原貢蔵・大橋元六らに『夢物語』の著者探索にことよせ、渡辺崋山の近辺について内偵するよう命じた。鳥居はすでに前年から崋山の身辺を探索しており、この機会を利用して「蘭学にして大施主」と噂される崋山の拘引を狙っていたとみられる。10日後の4月29日、小笠原は調査結果を復命した。 イギリス人モリソンの人物について 『夢物語』は高野長英の翻訳書を元に崋山が執筆したものであろうという風説 幡崎鼎の人物像と彼と親しい者の名(松平伊勢守、川路聖謨、羽倉簡堂、江川英龍、内田弥太郎、奥村喜三郎)。また彼らは幡崎が捕らえられてからは崋山・長英と親しくしていること 崋山の人柄と彼に海外渡航の企てがある旨 これらを述べた後さらに小笠原は、順宣・順道ら常州無量寿寺の人間たちが無人島(小笠原諸島)に渡航しようとしており、さらにアメリカまで行こうとしているという、『夢物語』とは関係なく水野の探索指令にもない一件を加えている。これら一連の情報を小笠原にもたらしたのは、下級幕臣の花井虎一である。彼は蘭学界に出入りして崋山宅もしばしば訪れており、さらにはそもそも無人島渡航計画にも加わっていた人物であった。鳥居は蛮社の獄の1年も前から花井を使って崋山の内偵を進めており、花井は鳥居一派に完全に取りこまれ、犯罪の既成事実を作るべく崋山と順宣グループそれぞれに渡海をけしかけていた。報告を受けた鳥居は、無量寿寺についてさらなる調査を命じた。 一連の調査の結果、順宣らの計画は幕府に許可の願書を出し済みの合法的なものであることが判明したが、鳥居は、この計画に崋山が関与しさらに単独でアメリカに渡ろうとしている旨の告発状を書き上げ、水野に提出した。先年崋山が羽倉の小笠原諸島の調査に同行しようとしたことも、密航の企ての証拠とされた。 なお告発状の大部分は崋山への誣告で占められているが、崋山の同調者として羽倉や江川、見分に同行した内田と奥村ら幕臣の名前が批判的に挙げられている。鳥居の狙いが、崋山の陥れとともに政敵排除と見分に介入されて不快を覚えた私怨を晴らすことにあったということが、ここからも伺える。ちなみに川路聖謨は告発状の中に名を挙げられていない。水野は鳥居の訴状を鵜呑みにはせず、配下の者に再調査を命じた。その結果、俎上にあげられた人間のうち、幕臣(松平伊勢守、羽倉、江川、内田、奥村、下曽根信敦)は皆容疑から外された。 以上の通説に対して田中弘之は、前記のとおり鳥居と江川は昵懇の間柄であり、鳥居は崋山の友人に幕府高官もいることを利用して水野に崋山の危険性と影響力の強さを強調しようとしたもので、幕臣を告発する意図は最初からなかったとしている。また水野が再調査を命じた根拠とされる、鳥居の上書(告発状)以外のもう1通の上書についても、水野の再調査命令による上書ではなく、吟味の過程で鳥居の告発に疑問を抱いた北町奉行所が作成したものだと思われる。もし水野の信任厚い羽倉・江川に疑惑があるなら直接問いただすはずだし、またこの時点で水野が鳥居を全面的に信頼しているのは明らかだとしている。 5月14日に崋山・無人島渡航計画のメンバーに出頭命令が下され、全員が伝馬町の獄に入れられた。キリストの伝記を翻訳していた小関三英は自らも逮捕を免れぬものと思い込み、5月17日に自宅にて自殺した。高野長英は一時身を隠していたが、5月18日になり自首して出た。これにより、逮捕者は以下の8名となった。 渡辺崋山(田原藩年寄。47歳) 高野長英(町医。36歳) 順宣(無量寿寺住職。50歳) 順道(同上。順宣の息子。25歳) 山口屋金次郎(旅籠の後見人。39歳) 山崎秀三郎(蒔絵師。40歳) 本岐道平(御徒隠居。46歳) 斉藤次郎兵衛(元旗本家家臣。66歳) なお、崋山拘引の直後、水野は「登(崋山)事夢物語一件にてはこれ無く、全く無人島渡海一件の魁首なり」と断言しており、『夢物語』よりも無人島渡海を重要視している姿勢がうかがえる。
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