温泉芸者シリーズとポルノ
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「東映ポルノ」の記事における「温泉芸者シリーズとポルノ」の解説
1968年、岡田の企画で始めた"温泉芸者シリーズ"、"温泉もの"、"芸者もの"の、第一作のタイトル『温泉ふんどし芸者』は映倫からクレームが来てボツ企画に。結局『温泉あんま芸者』(1968年6月28日公開)から6本作られた。 東映の"温泉芸者シリーズ"は、1963年『温泉芸者』(叶順子主演・富本壮吉監督)から始まる大映の"温泉シリーズ"を真似たものといわれる。 外注のピンク女優を大量起用した『徳川女系図』がピンク業界から反撥を受けたため、岡田プロデュースのシリーズ第3作1968年『温泉あんま芸者』(石井輝男監督)からは自前のヌード女優を育成してエロ路線を充実させた。 映画の舞台となった温泉は観光地として売り出せるため、ロケ大歓迎のタイアップ作戦で、安上がりの上、スタッフ・キャストは至れり尽くせりだったといわれる。ところが段々興行成績が落ち、肝心の温泉地もロケお断りとなり、苦肉の策で鈴木則文の静岡の実家のコネを使い、伊豆で撮影されたのが第4作『温泉みみず芸者』(1971年7月公開、鈴木則文監督)。この『温泉みみず芸者』に於いてプロデューサーの天尾完次が海外の雑誌のグラビアから"ポルノグラフィ"という言葉を見つけて、"ポルノ"という言葉を日本で初めて使った。本作で主演デビュー作となった当時16歳の池玲子を成人の履歴書に100%捏造し、池を売り出すため、あれこれ思案し「日本初のポルノ女優」というキャッチコピーを付けた。 今日SEX映像の代名詞として日本で定着する、"ポルノ"という言葉は、このとき東映が作った造語。 "ポルノグラフィ"という言葉は、文学、絵画、写真等の官能表現の一分野として存在はしていたが、知る人のみが知る異端の業界用語で一般には知られてなかった。勿論、"ポルノグラフィ"を"ポルノ"と略したのもこの時が最初である。池は"ポルノ"という言葉を聞いて「全然いやらしくないし、すっごく可愛い感じがする」と喜んでいたという。 この『温泉みみず芸者』で池とともにデビューしたのが、やはり天尾と鈴木がスカウトした杉本美樹で、岡田社長から「二人を自前のポルノ女優として育てろ」と指示があった。"ポルノ"という言葉はスポーツ新聞から、夕刊紙、週刊誌などに拡散され、川上宗薫や梶山季之といった作家の官能小説には"ポルノ小説"という言葉が付けられた。 日活も東映のアイデアを拝借して"日活ロマンポルノ"という言葉を作り、東映の『温泉みみず芸者』公開から4か月後の1971年11月20日に『団地妻 昼下りの情事』『色暦大奥秘話』を"日活ロマンポルノ"第一弾として封切り「ポルノ映画」という名称が一気に普及、"ポルノ"という言葉が日本に広く認知され定着していった。この"日活ロマンポルノ"最初の二作品はそれぞれ「団地妻シリーズ」「色暦大奥シリーズ」として量産されるが、日活の大奥物は東映の大奥物(大奥に関する作品の一覧)のパクリである。 東映も1972年のゴールデンウィーク映画『徳川セックス禁止令 色情大名』から岡田の強い意向で看板に「東映ポルノ路線」と書かせた。 『温泉みみず芸者』は、岡田が天尾と鈴木をタコのよく獲れる海岸に行かせ、タイトルも最初は『温泉タコ壺芸者』であったが、「考えたけど、タコ壺は弱い。みみずにしろ」と岡田が言ってきて、鈴木が「もうタコ壺を使って撮影してますよ」と反論したが「中身はいいからタイトルだけはみみずで行け」と『温泉みみず芸者』にタイトルを変更した。 また映画の「クライマックスは“セックス対決”で行こう」「その方が作品が締まる。温泉芸者で“勝負したら締まる”」という岡田理論を指示し、東映ポルノの“セックス対決”という伝統はここからスタートした。 東映の"温泉芸者シリーズ"は、その後1973年『温泉おさな芸者』(鷹森立一監督)、1975年『東京ふんどし芸者』(野田幸男監督)が製作されるもパワーダウンしシリーズ終了。日活ロマンポルノの"温泉芸者モノ"も次第になくなり、ジャンルとして絶滅している。
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