渡洋爆撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 09:14 UTC 版)
14日、台風の中で初の渡洋爆撃が敢行されることとなり、新田慎一少佐率いる九六式陸上攻撃機 9機、浅野楠太郎少佐率いる8機は台湾松山飛行場を発し、荒天の中をそれぞれ杭州、広徳飛行場への渡洋爆撃に出撃した。この時、梅林は浅野隊の2番小隊長機であった。浅野隊は飛行場施設および航空機に250キロ爆弾を投入し、格納庫2、高射砲1および滑走路に留めてあったノースロップ・ガンマ2EC(英語版)爆撃機約20、カーチス・ホーク戦闘機約10の大部分の破壊を報告したが、中国空軍暫編第34中隊長・周庭芳上尉のカーチス・ホークⅡ(英語版)(老ホーク)に進路を妨害され、実際には爆弾の多くは稲田に落ちて失敗したと思われる。また帰路にて、梅林小隊の2番機(片野正平三空曹機)が銭塘江上空にて中国空軍第4大隊第22中隊分隊長・鄭少愚中尉のカーチス・ホークⅢ(英語版)(新ホーク)に燃料タンクを撃ちぬかれ、基隆港の社寮島(中国語版)灯台沖に不時着水、乗員は救助されたが機体は放棄された。新田隊は高志航中校率いる第4大隊主力の迎撃を受け、2機未帰還・1機大破の損害を負った。 16日、句容・揚州への渡洋爆撃が実施されることとなり、午前8時、新田少佐率いる句容爆撃隊6機が、8時40分には石俊平大尉率いる揚州爆撃隊7機が松山飛行場を発した。梅林は石隊の2番小隊1番機に搭乗し、小隊長兼偵察者であった。9時30分、石大尉搭乗機が発動機不調により引き返したため、梅林が指揮官代理となる。12時15分ごろ、揚州飛行場を爆撃、12時30分ごろ、中国空軍第5大隊24中隊・25中隊の新ホーク10機との戦闘で左タンクが被弾、機体炎上。その際、黒煙の中から僚機に白いハンカチを振って別れを告げ、乗員7名とともに自爆した。中国側の資料では、梅林機を撃墜したのは第5大隊副大隊長の馬庭槐であったとみられる。 句容爆撃隊でも第3大隊第17中隊および第5大隊第28中隊の迎撃で2機が撃墜され、新田少佐以下15名が犠牲となった。同日、第一連合航空隊司令官戸塚道太郎少将は戦闘詳報の中で「陸攻隊の強襲は、往年の二〇三高地(旅順攻囲戦)の強襲に等しい心境で敢行した」と述べている。 死後、その散り際の見事さが戦場美談として伝えられた。当時、顕彰歌として「その名も薫る梅林」と歌う『あゝ梅林中尉』(下記)が作られたほか、浪曲を含む各種媒体で取り上げられた。また、1939年には北村西望の指導のもと、梅林ら戦没者7点の胸像が石原昂ら7人の彫刻家「報国芸術会」によって制作され3月19日、遊就館に献納されている。 顕彰歌 『あゝ梅林中尉』 (日本コロムビア 1937年10月25日発売) 作詞:西條八十 作曲:江口夜詩 歌:霧島昇、コロムビア合唱団 朗読 『梅林大尉遺言』(日本コロムビア) 朗読:福井銀城 詩吟 『壮烈梅林大尉』※上記B面、和歌本宮三香、漢詩湯沢天真の二部からなる。 歌:福井銀城
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