不時着時の悲劇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 17:22 UTC 版)
日本航空隊搭乗員が撃墜などで不時着したおり自決を果たしていたことを、当時のタイム誌が中国軍側に好意的な視点をもって報道していた。日清戦争当時の「敵国側の俘虜の扱いは極めて残忍の性を有す。むしろ生贄となるぐらいなら潔く一死をもって遂ぐべし」との山縣有朋の訓示のほか、素質下等と見下していた中国軍に捕虜となる事は恥の上塗りとして、空閑昇少佐のように生きている時は指弾され、自決後は軍神として称賛される風潮は将兵たちに威嚇の効果を与え、捕虜とならず自決する慣習の一因となった。 また、高山正之は日中戦争における、中国側の伝統的な残虐行為による捕虜への処遇もその一因であるとしており、実際に開戦初期は日本軍の捕虜に対する処置同様、中国側でも兵や暴徒化した民衆による虐殺はあったようだが、航空機搭乗員に限っては情報を引き出すべく航空委員会が一括して保護し、厳重な管理と尋問がなされたためそうした事はなく、捕虜となった13航空隊第2分隊分隊長山下七郎大尉に、彼を撃墜した第5大隊第24中隊副隊長の羅英徳が度々見舞いに行くような交流もあった。また、一般兵に対しても武漢会戦以降は対敵宣伝や情報収集のため優遇策が取られるようになり、捕虜の保護を軍紀で徹底化させる、捕虜を連れて来たものに対し報奨金を出すなどの処置がとられている。しかし、対敵宣伝に利用されたものもおり、原隊に送還されても多くが軍刑務所や教化隊に送り込まれ、銃殺刑や自決を命じられることもあった。
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