中国からの渡洋爆撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 17:22 UTC 版)
規模と頻度は劣るが、中国空軍も日本領に対して渡洋爆撃を行っている。日中戦争初期の中国空軍は、アメリカ製のマーチン139Wを9機、ドイツ製のHe111Aを6機、イタリア製のカプロニ_Ca.101(英語版)とサヴォイア・マルケッティ_S.72(英語版)各若干などの中型爆撃機を保有した。また、義勇兵の名目で派遣されたソ連空軍志願隊のSB双発爆撃機とTB-3四発機(輸送機として使用)も共同作戦を行なっていた。 最初に行われた中国側の渡洋爆撃は、1938年2月23日の台湾に対する空襲である。参加したのはパーヴェル・ルィチャゴフを指揮官とするソ連空軍志願隊のSB爆撃機28機で、攻撃目標は日本側の出撃拠点となっていた台北近郊の松山飛行場。南昌市を出撃した攻撃隊は、高空飛行で目標に接近すると、聴音による探知を防ぐためエンジンを停止した滑空での奇襲を試みた。攻撃隊は迎撃を受けること無く各機10発の50kg爆弾を投下したが、戦果は不明である。 2度目は、1938年5月20日に九州に対する宣伝ビラ撒布。残存していた2機のマーチン139Wが投入された。参加部隊は中国空軍の第14大隊で、機密保持や乗員が捕虜となった場合の国際問題回避のため、乗員は外国人ではなく、6人全員が中国人であった。長距離の計器飛行に備え、2ヶ月間の特別訓練が実施された。航続力の問題から重い爆弾は搭載できず、日本軍の蛮行批判を内容とする数種の宣伝ビラが爆弾倉に収められ、武装は自衛用の機関銃のみだった。第14大隊長の徐煥昇が直率する2機は重慶を出撃し、漢口と寧波を中継して夜間飛行で九州に到達すると、民家の灯火を目標にビラを散布した。ビラは熊本県人吉町と南方の山林に落ちたが、官憲により回収されて宣伝効果はなかった。2機のマーチン139Wは無事に寧波へ着陸し、中国側は九州侵入成功を大きく報じた。 3度目は、1938年5月30日に行われた前回と同様の宣伝ビラ撒布と推定。日本側の西部防衛司令部は、同日夜に鹿児島県上空へ中国機と思われる航空機の出現を記録している。しかし、中国側の戦果発表はなく帰還に失敗したと推定される。その後、中国軍のマーチン139Wによる活動は絶えている。 太平洋戦争突入後は、1943年11月25日の新竹空襲や1944年の八幡空襲など、中国大陸を拠点とするアメリカ陸軍航空軍の第14空軍による台湾や九州を目標とした渡洋爆撃が行われた。
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