中国からの抗日放送と3人の女性とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 中国からの抗日放送と3人の女性の意味・解説 

中国からの抗日放送と3人の女性

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/11 15:02 UTC 版)

南京の鶯」の記事における「中国からの抗日放送と3人の女性」の解説

中央広播電台1937年11月日本軍の侵攻伴って南京から漢口、そして重慶へと移動した11月19日には日本語放送中止11月23日には南京からの放送全て中止された。この日から中央広播電台番組長沙長沙広播電台から放送されるようになり、12月には漢口広播電台も加わった。翌1938年3月10日中央広播電台重慶から放送再開したが、抗日放送中心依然として漢口広播電台であった。この時期参加したのが「中国緑の星」などと称される長谷川照子通称テル筆名緑川英子)である。1938年2月香港次いで広州から抗日反戦呼び掛け行った長谷川は、同年夏に漢口到着して中国国民党中央宣伝部国際宣伝対日科に所属し日本語放送女性アナウンサーとして活躍した。しかし、日本軍の侵攻によって長谷川10月半ば重慶中央広播電台移り10月27日武漢三鎮日本軍によって占領された。その直後11月1日付けの『都新聞』に「“嬌声売国奴”の正体はこれ/流暢な日本語操り/怪放送祖国へ毒づく“赤”くずれ長谷川照子」と題する記事掲載され正体明らかにされた。重慶移動後は中国国民党宣伝中心抗日から反共転じていったため、長谷川活動次第制限されるようになり、1941年10月ごろに中国国民党中央宣伝部離れた日中戦争終了後長谷川は旧満州設立され東北解放区入り中国共産党一員として活動始めたが、1947年1月10日妊娠中絶手術の際の感染症がもとで死去したまた、同じ中央広播電台活躍した南京の鶯」・劉俊英国共内戦最中消息を絶った一方中国共産党最初放送局として1940年12月30日開局した延安延安新華広播電台も、1941年12月3日最初海外放送国際放送)として日本語放送開始した。この延安新華広播電台で女性アナウンサーとして活躍したのは原清子(中国語版)(後に清志と改名)で、1回30分の番組を週に1、2回、主に中国大陸日本軍向けに放送していた。延安北西約19kmにある王皮湾の、延河の支流西川南岸にある山の中腹開鑿して洞窟をつくり、その入り口防音のため羊毛毛氈垂らした粗末な演奏室と、病気の治療のためにソ連モスクワ訪問した周恩来持ち帰った短波送信機使用して放送であった当時延安周辺には発電所無く電力自家発電頼っていたが、木炭から製造した代用ガソリン自動車エンジン動かし、その動力ベルト発電機伝えていたため、送信機出力は不安定であった1943年春、送信機致命的な故障によって放送中断したが、これが現在の中国国際放送(旧・北京放送)の出発点である。なお、原は2001年中国一生終えた

※この「中国からの抗日放送と3人の女性」の解説は、「南京の鶯」の解説の一部です。
「中国からの抗日放送と3人の女性」を含む「南京の鶯」の記事については、「南京の鶯」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「中国からの抗日放送と3人の女性」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「中国からの抗日放送と3人の女性」の関連用語

1
32% |||||

中国からの抗日放送と3人の女性のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



中国からの抗日放送と3人の女性のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの南京の鶯 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS