法典論争政府内論戦
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1892年(明治25年)8月、第2次伊藤内閣成立。法相山縣、外相陸奥、内相井上馨、逓信相黒田清隆、農相後藤象二郎。 10月、ようやく伊藤首相は西園寺公望を委員長とする「民法商法施行取調委員会」を設置、 断行派:本尾敬三郎・横田国臣・岸本辰雄・長谷川喬・熊野敏三・梅謙次郎 延期派:木下広次・富井政章・松野貞一郎・穂積八束・小畑美稲・村田保 という委員をして、延期法案上奏可否につき討議させた。 ただし22年後の村田証言では八束ではなく陳重。また小畑は『時事新報』によれば断行派寄り(一部修正即断行)、『日本之法律』も断行派と報道。星野の著書でも小畑を断行派、横田を延期派と記述するものがあったが、後にその逆に修正されている。過激延期派とみなされた高橋健三は委員から排除された。 当時の風説によれば、この時点で伊藤首相は断行論に変じていたとも言われ、また山縣・黒田をはじめ閣僚は一部断行で一致していたという。 村田証言では、開口一番、西園寺を含めて断行派多数であり出来レースである、政府はこの期に及んで断行に固執するのかと詰め寄り、中立に徹するとの回答を西園寺から引き出した。また全部施行を視野に入れたものだというのが伊藤の説明だったが、もっぱら一部施行の可否を検討するものだったとの報道もあり、真相は不明。 民法については、主に延期派の富井と断行派の梅の間で激論が戦わされた。 (一)旧民法が模範とするフランス民法典が古過ぎる判例・学説の進歩をも取り込んでおりさほど古くない (二)最新のドイツ、ベルギー民法草案が参考されていない独民法草案公布後1年しか経っていないのでやむをえない (三)法律の進歩を妨げる恐れあり一概には言えない (六)自然法説は前世紀の遺物反自然法説は定説ではない (十五)法典さえあれば条約改正が必ず成るわけではない法典が無ければ必ず成らない (十六)安易な条約改正は望ましくない(現行条約励行論)条約改正は国家の悲願である (十七)条約改正のためでなく国内の需要に応じて実施すべき条約改正も国内の需要による (十八)延期法案は修正事業を誰に委ねるか明言しておらず無責任とは言えない政府に丸投げしており無責任である 村田証言では断行論を主張する者はもはや一人もおらず、民商両法典は修正を要する旨一致したとされているが、武勇伝的叙述で不正確との批判がある。 同月、ボアソナードは「新法典駁議弁妄」を著し、引き続き延期派に反論。 結局、上奏御裁可を乞うべき旨を政府は決断、11月24日には裁可が下り法律として確定、民法は明治29年12月31日まで全編修正のため施行延期に決定。法典論争に終止符が打たれた。 もっとも、旧民法は全く陽の目を見ず葬り去られたわけではなく、第9・12回帝国議会で正式に廃止されるまで裁判所で法源として活用され、国家試験の科目でもあった。日本で一番最初に実効性を持った民法典は旧民法だったのである(杉山直治郎)。
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