河越夜戦に関する議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 02:07 UTC 版)
「河越城の戦い」の記事における「河越夜戦に関する議論」の解説
河越城の戦いは、約10倍の兵力差を覆しての勝利として、戦史上高く評価されているものの、史料によって合戦の年月日が違うなど不明な点も多く、更なる研究が待たれる。近年では前後に起こった何回かの合戦が天文15年4月20日の出来事として集約されて伝わったとの説が有力である。 足利晴氏の行動について 国府台の戦い後、足利晴氏は北条氏綱を関東管領とし、氏綱も娘を晴氏に嫁がせるなど円満な関係にあった。その晴氏が北条氏康からの中立要請を無視して北条氏と敵対した理由に関して、難波田善銀ら上杉氏側からの働きかけが功を奏したのは想定されるが、晴氏が氏綱・氏康から何らかの圧迫を受けていたことを示す同時代史料は見つかっておらず、具体的な動機が不明である。また、氏康は合戦直後の6月10日には晴氏の重臣・簗田高助に対し、義明討伐の恩義を忘れて氏綱の子孫を絶やそうとするのは「君子の逆道」であると、晴氏の変節を非難する書状を送っているが、その後も晴氏との対立を回避しようとしていた形跡がある。 これについて、国府台の合戦によって足利義明が滅亡した後の戦後処理が原因であったとする説がある。すなわち、義明が小弓城に本拠を置いたのは、周辺に古河公方の御料所が多くあり、古河公方の巡る争いの中で義明はそれを手中に収めて勢力基盤を確立させたと考えられている。従って、義明が滅亡した後はそれらの土地は古河公方の御料所として回復されると考えていた晴氏とこの地域を軍事力でそのまま当知行化を図ろうとした氏綱・氏康の間で支配争いが生じ、晴氏が北条氏と袂を分かって上杉氏と結んだというものである。実際に北条軍が駿河に出陣中の天文14年10月には上総方面に向かう拠点となる市川方面に兵を進めており、晴氏の当初の軍事目標は河越城では無く、下総・上総方面の御料所の奪還であったことを示唆している。 篭城戦の有無や合戦の規模について 上杉・足利連合軍の動員数や、夜戦であったのかについては不明な点があるが、連合軍側が北条軍より数的優位であったことと、大規模戦闘があったことについては史料や検証で確認されている(『高白斎記』天文十五年条、足利晴氏『毛呂氏宛書状』、北条氏康『古河公方宛書状』・『上原出羽守(太田資顕重臣)宛書状』)。 また、戦闘の経過については、のちにではあるが氏康が「両口において同時に切り勝ち」を書き残していることから、篭城側と後詰め側で何らかの連携があったとされる。 河越夜戦の激戦地と伝えられる東明寺(川越市志多町)の境内には、河越夜戦跡の碑が建てられ、将兵の遺骸を納めた富士塚が残る。宝暦年間に掘ったところ髑髏が500体ばかり出たという。塚の上には稲荷諏訪天満宮がある。これは難波田憲重が河越夜戦で東明寺口の古井戸に落ちて死んだため、霊を祀ったものである。当時、東明寺は広大な寺領があり、その門前町は鎌倉時代より賑わった。そこが戦場になったことから、古くは「東明寺口合戦」とも言われた。明治期の道路工事でも一帯からは夥しい人骨が出ている。もっとも、こうした人骨を河越夜戦の犠牲者とするのは夜戦の実在を前提とした話であり、後述する「河越夜戦において大規模合戦はなかった」と主張する研究者の側からは、中世河越の外れにあった東明寺周辺に鎌倉の由比ヶ浜や静岡県の一の谷墳墓群遺跡のような大規模な墳墓群が形成されていたと考えるのが自然である(すなわち、これらの人骨は河越夜戦の犠牲者のものではない)とする反論がある。 大規模な合戦はなかったとする説の存在 河越城の戦いは大規模な籠城戦のなか、ゲリラ的な襲撃はあったものの、白兵戦のような大規模な衝突は存在しなかったとする説が、黒田基樹など一部の研究者から提唱されている。その根拠として、後北条氏側においてこの合戦に関する感状が存在しないこと、上杉朝定が死亡したする記録はあるものの、誰が討ち取ったかなどその死の状況を示す記録はなく陣地における病死の可能性も否定できないこと、北条氏康の書状でも山内上杉氏の陣地があった河越郊外の砂窪(川越市砂久保)で3,000名を討ち取ったことやこの戦いを仕掛けたとされる難波田弾正(憲重)を討ち取ったことは記されているものの、城そのものの攻防戦については触れられていないことが挙げられている。また、川越市立博物館所蔵の「伝行寺過去帳」の天文15年4月15日欄外に「河越一戦討死弐千八百廿余人」とあり、3,000名規模の犠牲者が出ている点は史料的に一致している一方で、通説よりははるかに少ない。この説によれば、河越城の北条軍が上杉軍に包囲されて籠城戦に入ったことは事実であるが、上杉朝定の急死で包囲軍が崩壊したのが実情で、大規模な夜戦の描写は『北条五代記』『関八州古戦録』など後世の軍記物による創作に過ぎないとする。
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