河越夜戦後の関東攻防
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:10 UTC 版)
天正19年(1550年)閏5月、古河公方足利晴氏との関係悪化を受けて、晴氏室となっていた妹の芳春院とその所生である梅千代王丸(後の足利義氏)を取り戻す工作を進め、翌天正20年(1551年)12月までに、両者を北条領である下総葛西城に移すことに成功した。 天文19年(1550年)7月6日に足利義輝の命を受けて、里見義堯との仲介の労を取るために関東に下向した彦部雅楽頭に取り成しに満足した旨の手紙を送っている。 天文19年(1550年)に、上杉憲政の居城平井城を攻めたが、このときの攻略はならず、翌天文20年(1551年)に平井城を落とすことに成功し、憲政を厩橋城、さらに白井城へと追い詰め、天文21年(1552年)正月に憲政は越後守護代・長尾景虎(後の上杉謙信)の元に身を寄せることになった。しかし、翌天文21年(1552年)7月に長尾景虎の支援を得た憲政が武蔵北部まで入り、同調した諸氏に対し味方の赤井氏救援のため氏康が報復する事態まで起きた。結局この後永禄3年(1560年)まで憲政の関東侵入はならず、山内上杉氏与力の由良氏・佐野氏・長野氏・横瀬氏等の抵抗があったが、弘治元年(1555年)頃には北条に属すことで、上杉連合軍に全域を奪われていた上野は、一旦は北条氏の勢力下に治まった。 上野や武蔵以外にも常陸の佐竹氏、下野の宇都宮氏などの関東諸侯との敵対状況は続いていた。天文22年(1553年)4月には、真里谷武田氏を攻略していた里見氏を攻め始め、その中で内房正木氏が北条に下っている。天文23年(1554年)には古河城へ侵攻、2年前に公方の位を後北条氏の血を引く息子(氏康の甥)の足利義氏に譲った晴氏を秦野に幽閉。さらに大石氏には氏照、藤田氏には氏邦と息子を養子に送り、時間をかけながら、実質的に一門に組み入れた。 弘治元年(1555年)、連年の攻撃によって、内房沿岸における里見軍の拠点の1つであった金谷城を攻略することに成功し、内房地域を制して里見氏を安房に追い込んだ。 弘治3年(1557年)には宇都宮家臣・芳賀高定の宇都宮城奪還に協力し、古河公方及び佐竹氏や那須氏など周辺の大名らに宇都宮氏への援軍要請を出している。さらに宇都宮城奪還時に壬生氏当主の壬生綱雄に対して旧宇都宮領を宇都宮氏にすべて返還するよう命令を出した。これらの行いは氏康の権力が関東管領に匹敵することを関東諸将に知らしめるという思惑があったために行ったという。
※この「河越夜戦後の関東攻防」の解説は、「北条氏康」の解説の一部です。
「河越夜戦後の関東攻防」を含む「北条氏康」の記事については、「北条氏康」の概要を参照ください。
- 河越夜戦後の関東攻防のページへのリンク