民本主義の主張とは? わかりやすく解説

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民本主義の主張

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 00:46 UTC 版)

吉野作造」の記事における「民本主義の主張」の解説

1914年大正3年1月、『中央公論編集主幹瀧田樗陰頼まれ、同誌に「学術上より見た日本問題」を寄稿し国際社会一員としての日本人あり方批判的な目を向けている。4月号には「民衆的示威運動論ず」を寄稿日本民衆運動にも民衆自覚という肯定的な面を主張した1915年大正4年)、『中央公論7月号の「大正政界の新動向論説古川学人という筆名使用した同年法学博士号を授与される1916年大正5年)、同誌1月号に代表作となった評論憲政本義説いて有終の美済すの途を論ず」を発表大正デモクラシー代表的な論客となる。1918年大正7年)、白虹事件が起こると、吉野言論の自由擁護して浪人会暴行事件非難、同会との間で立会演説会開き聴衆圧倒的支持得た。これをきっかけ福田徳三今井嘉幸とともに頑迷思想撲滅」をめざす黎明会結成1923年大正12年9月1日関東大震災研究室図書館火災遭った際、吉野貴重な資料取り出そうとして燃え図書館二度突入試みたが、果たせず。炎を見上げながら立ち尽くす吉野の頬を数条の涙が光っていたという。1924年大正13年11月東大教授の職を辞任し東京朝日新聞編集顧問論説委員として入社するが、政治評論がもとで同年退社1924年2月7日東京帝大教授をやめ、朝日新聞社入社し4月1日-6日枢府内閣」で筆禍5月29日退社した東大講師戻り11月明治文化研究会組織尾佐竹猛石井研堂宮武外骨小野秀雄藤井甚太郎ら、在野人物を含む異色メンバー集めたことは、吉野視野広さ包容力大きさ現している。同会のメンバーと『明治文化全集30巻の刊行1927年10月5日-1930年7月25日)に尽力する吉野及び宮武収集が、東大明治新聞雑誌文庫の基になった1927年昭和2年)、女子経済専門学校(現東京文化学園理事教授晩年無産政党との関係を強め右派無産政党である社会民衆党結成に関わっている。なお、赤松克麿吉野娘婿である。 1933年昭和8年1月肋膜炎発症し神奈川県三浦郡逗子町湘南サナトリウム入院3月18日55歳死去

※この「民本主義の主張」の解説は、「吉野作造」の解説の一部です。
「民本主義の主張」を含む「吉野作造」の記事については、「吉野作造」の概要を参照ください。

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