死者の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 05:52 UTC 版)
調査員も参照。流行の激しさを判定するため、大流行が起きた当時の人口を把握する必要がある。公的な人口調査記録は存在しないが、同時代の信頼できる文献として王立学会でも最初期の王立協会フェローで、人口統計学者の一人でもあるジョン・グラントの報告があり、統計の処理に科学的方法を取り入れている。 1662年、彼は毎週首都で発行される死亡表から、ロンドン市、自由区域、ウェストミンスター地区、外教区の人口は38万4千人と予想した。これらの様々な統治機構を持つ種々の区が公式に全体としてロンドン市を構成していた。1665年に彼は予想を「46万人を超えない」に修正した。ほかの同時代文献はもっと大きな数字を予想していた(たとえばフランスの外交官は60万とした)が、統計学的根拠があるわけではなかった。ロンドン市の次に大きな都市はノリッジで、人口は3万だった。 当局の人間に死亡を報告する義務は全くなかった。その代り、それぞれの教区では2人かそれ以上の死体を調査し、死因を決定する義務を負う調査員を任命していた。「調査員」は死亡を報告する毎に遺族より少額の手数料を徴収する資格が与えられていたので、教区では任命しなければ貧困のため救貧税による支援が必要となりそうな人間を割り当てていた。通常、このため「調査員」には非識字で騙されやすい高齢の女性が任命され、疾患の特定についての知識はほとんど期待できなかった。 「調査員」はその区域の埋葬を担当する教区管理人か、教会の鐘を鳴らす人から、死亡と取扱いについて学んでいた。 クエーカー、アナバプテスト、その他イギリス国教会に属さないキリスト教徒やユダヤ人のような、その地域の教会に死亡を報告しなかった人々は、公的記録から漏れることがしばしばあった。大疫病期の「調査員」は地域社会から離れて生命を維持することを求められ、他の人々との接触を避け、屋外にいるときは役職を示す白い棒をもち警告し、その職務外の時間は疫病を拡散させないよう、室内にとどまる必要があった。 「調査員」は教区庶務係に報告し、庶務係はブロード街にある教区庶務会”company of Parish Clerks”に毎週報告書を作成した。数字はロンドン市長に報告されていたが、疫病が国内で懸念されるほど広がった時は、大臣にも報告されていた。 その報告をもとに、死亡表が作成され、それぞれの教区での死者の数と疫病で死んだかどうかが記載されていた。この「調査員」が死因を報告するシステムは1836年まで続いた。 グラントは「調査員」が死の真の原因を特定する能力を持たず、医師によって識別しうるほかの疾患ではなく、しばしば「消耗」とされていることを記録している。また1杯のエール、あるいは手数料を倍のグロート銀貨2枚払えば、「調査員」が死因を居住者にとってもっと好都合なものに変えてしまうことも示した。 教区庶務係を含め、誰もが疫病で死んだ人間が出たことを知らせたくなかったため、公的な報告書の上で疫病での死亡例をごまかすことは黙認されていた。真の死因を意図的に変えて報告することで、流行していた期間の死亡表の分析では、疫病以外の死亡が平均よりはるかに多く生じていた。 疫病が広まるにつれ検疫が導入されたが、それは疫病死が発生した家は40日間締め切られ、出入りを一切許さないというものであった。この検疫による閉じ込めはしばしば無視され、疫病でなかったとしても他の居住者の死につながったほか、疫病を報告しない強力な動機となった。 公式の報告書では68596人が疫病で死亡したと記録されているが、合理的な根拠を踏まえると3万は過少に報告されていると考えられている。疫病が発生した家は「主よ、憐れみたまえ」との文字と赤い十字の目印をつけられ、出入りを監視する監視人が付いた。
※この「死者の記録」の解説は、「ロンドンの大疫病」の解説の一部です。
「死者の記録」を含む「ロンドンの大疫病」の記事については、「ロンドンの大疫病」の概要を参照ください。
- 死者の記録のページへのリンク