歴史改竄主義とは? わかりやすく解説

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歴史修正主義

(歴史改竄主義 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/09 08:23 UTC 版)

歴史学において歴史修正主義(れきししゅうせいしゅぎ、: historical revisionism)とは、歴史の再定義や再解釈の言説を指す用語である。一般に否定的・批判的な意味合いを込めて使用されることが多く、特に第二次世界大戦に関わる戦争犯罪戦争責任に関わる議論で、それを否定または相対化する言説を指して歴史修正主義という用語が使用される。


注釈

  1. ^ 1960年代頃まで、ドイツ歴史学会においては第二次世界大戦とナチズムの時代はドイツ史の中の例外であるとし、第二次世界大戦の戦争責任がドイツにあることは認めつつも、第一次世界大戦は「諸列強が戦争に引きずり込まれた」結果起こったもので特定の参戦国ではなく全ての列強が戦争責任を負うものであるとする立場が主流であった。フィッシャーが第一次世界大戦と第二次世界大戦の連続性を説き、第一次世界大戦におけるドイツ指導者の誤謬、ドイツ帝国第三帝国の連続面を強調としてナチズムをドイツ史の一連の流れの中で理解しようとしたことは、これに反発する研究者との間で激しい論争を巻き起こした[17]
  2. ^ 荒井訳ではドイツ外務省の戦争責任報告部。具体的な活動は外郭団体として宣伝を担当するドイツ連合労働委員会と学問分野を担当する戦争責任研究本部が共同で研究と報告活動を行った。歴史認識の構築の中心となったのは研究本部の機関紙『戦争責任問題(Die Kriegsschuldfrage)』であり、編集責任者の元軍人アルフレート・フォン・ヴェーゲラー(Alfred von Wegerer)をはじめ、多くの論説家が俸給を受け取って定期刊行物に戦争責任問題について執筆し諸外国への宣伝活動を行った。その活動は極めて精力的であり、当時高等学校を卒業したばかりであった歴史家尾鍋輝彦はドイツ語の学習のために頻繁にドイツの出版社にカタログを注文していたために一人前の歴史学者と間違われヴェーゲラーから『ヴェルサイユ戦費テーゼに対する反駁』と題する英文書籍が寄贈されたことを回想し、「この書はよほど広範にばらまかれたことだろう」と感想を述べている。このように熱心な活動と潤沢な予算の下で大規模な資料の収拾や検証が行われたが、反面国家機構による強力な介入はドイツ人研究者による戦争責任問題の自由な研究を阻害し、学問的成果は貧弱であったと評され、具体的な「ドイツの大義」の弁護を担う役はヴェーゲラーのような歴史学の素人か外国人の歴史家の手に委ねられた[34][35]
  3. ^ 強調は原文に従っている。ただし原文での強調方式は斜体ではなく傍点。
  4. ^ 具体例として三島は次のような文章を挙げる。「暗闇に対する光の勝利について語られる場合、それは素朴なオプティミズム風の仕方で理解されてはならない。光の中で、はじめて光の部分は明るく、影の部分は暗くなるのであり、光の中でのみ闘いが戦われ、光の中でのみ傷口はあるがままにさらけ出されるのである。光、すなわちより鋭く包括的な意識は善なのではなく、善と悪との前提であり、その中に浮かんでくるのは、ほとんど例外なしに両者の混合形態である[55]。」これはノルテが終戦後35年の節目に、第三帝国の歴史も修正(Revision)を必要するのではないか?と問う講演の記録の一部である。
  5. ^ 公文書を中心とした実証主義的な手法に依拠した戦争犯罪の検証は一般に困難である。典型的な事例であるホロコーストや南京事件は上層部門による公文書史料が乏しい。ホロコーストの犠牲者数はその総数についての総括文書が残されておらず、破棄を免れた実働部隊の統計資料などが研究の基本となる。しかし特にソ連領内の状況は確認困難であり、死者数は推計値以上のものにはなりえない[63]。南京事件の場合も、日本軍の現地司令官級の人物は「文書足跡」を残しておらず、その研究は現地にいた欧米人のジャーナリストの目撃証言や生存者からの聞き取り調査に大きく依拠している。だが、ジャーナリストは時間軸的にも地理的にも全体の経過の中の極僅かの部分を目撃したに過ぎず、生存者たちの証言は戦後の調査によるもので、8年以上の時間的懸隔がある[64]
  6. ^ 1985年以来、ドイツではナチスの犯罪の否定を犠牲者の「侮辱」であるという理由で禁止している[79]
  7. ^ 正統主義の立場における歴史認識は、広島長崎への原子爆弾の投下がなければ第二次世界大戦は遥かに長引き、これなしで日本本土上陸作戦によって日本を降伏させていればアメリカ兵だけでさらに100万人の犠牲が出ており、その数倍の日本人が死亡した。従って原爆の投下はこれら予想される犠牲者の数を最小限に減らし多くのアメリカ人と日本人の命をも救うものであったというものである[82]。この認識を改める立場も「修正主義」と呼ばれる。エノラ・ゲイ号の展示に関わる議論においては、アメリカ在郷軍人会はこの救われたアメリカ人の「100万人」という数字に強くこだわった[83]
  8. ^ 「『わたしの生涯で最大の出来事は、第二次世界大戦だった』と前ニューヨーク州知事だったマリオ・クオモは最近のインタヴューで回想している。『そしてわれわれは、二度とそれを再現することはできなかった』。彼はこうつづけた。第二次世界大戦は、『この国が深く、たったひとつの大義を信じられた最後のときだった。それはなぜか。それは、東条のせいだった。あのけしからんヒトラーのせいだった。ムソリーニのせいだった。あのろくでなしめ。あのこそ泥たちは、真夜中にわれわれを襲った。われわれは善で、彼らは悪だった。団結しようぜ、とわれわれはいい、やつらをやっつけた。われわれはこの共同での取り組みの中に、この一般市民、社会、家族の中に、力を見いだした。一致団結するという考えは、わたしの生涯では、第二次世界大戦のときにいちばんいい結果をもたらした。あんな戦争は、これまでなかった』と、クオモはぼやいている。ヴェトナム戦争後の不快な数年間でさえ、アメリカ人はまだ思い出の中の一九四五年という陽光の中で身を温めることができそうだった[87]。」
  9. ^ ジャポティンスキーの主張は次のようなものであった。「アラブ人が我々を追い出すことに成功するだろうという一縷の望みを持ち続ける限り、世界における何ものも-やわらかい言葉も魅惑的な約束も-彼らにこの希望を捨てさせることはできない。それは正に彼らが烏合の衆ではなく生きた人々だからだ。そして生きた人々は異邦人の入植者を追い出すというすべての望みを諦めた時にのみ、そして鉄の壁のすべての裂け目がふさがれた時にのみ、そのような運命的な問題について譲歩する用意ができるだろう。そうなって初めて、『否、決して』をスローガンとする極端主義的なグループが影響力を失い、彼らの影響力がより穏健なグループに移行するだろう。それから初めて穏健派が妥協のための提案を申し出るだろう。それから漸く彼らは、自分たちを追い出さないという保証や市民的・民族的な権利の平等といった実際的な問題について我々と交渉し始めるだろう[95]
  10. ^ ベニー・モリス英語版は、アラブ人のユダヤ国家予定地からの追放に関し、シオニストによる組織的計画性には否定的であったが、国家予定地にできるだけアラブ住民を残さないという「暗黙の了解」があったと結論づけた[98]オックスフォード大学アヴィ・シュライム英語版は、シオニストとトランスヨルダンのアミール・アブドゥッラーが共謀したうえでパレスチナ・アラブを犠牲にして第一次中東戦争でパレスチナを分割したと主張した[99]イラン・パペは、イスラエル建国をめぐる最初のアラブ・イスラエル紛争の歴史を、犠牲者としてのパレスチナ人の運命を全面に押し出した[100]
  11. ^ 木村幹の整理によれば、同じ頃に日本でも朝鮮史研究者の世代交代が起きていた。日本の戦後朝鮮近代史研究は韓国の第一世代に近い、戦前に高等教育を受けた世代と、戦後に彼らを批判する形で台頭した第二世代と言える人々が担っていた。しかし第二世代は絶対数が少なく一人の研究者が広範な領域をカバーする必要性に迫られたために実証面において多くの問題を抱えることとなった。1980年代に入ると第三世代と呼ぶべき多くの若手研究者が朝鮮史研究に参入し、それ以前の研究に実証的な観点から批判を加えた。1980年代以降の韓国史学界が朝鮮の「内在的発展」論の不徹底を批判してそれを更に推し進めたのに対し、日本では「内在的発展論」の限界に批判が行われ、イデオロギー的な色彩を帯びた議論として過去のものとなって行った。このため1980年代を境に日本と韓国で朝鮮近代史像が大きく乖離し始めた。木村幹はこの研究史的な潮流の差異が20世紀後半以降の日本と韓国の歴史観を巡る対立の背景の1つと指摘する[110]

出典

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