武田一家とは? わかりやすく解説

武田一家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/18 04:34 UTC 版)

勇気凛々」の記事における「武田一家」の解説

武田光司 本作主人公。勇司、悦子の兄。金司・セキ夫妻長男1938年昭和13年1月27日生まれ。元々は弁護士目指していたこともあり、中央大学法学部法律学科1年学ぶが、新聞記者希望変わり早稲田大学入り直した1962年昭和37年3月早稲田大学第一政治経済学部政治科を卒業後、読売朝日毎日などの一般試験失敗し最終的に放送局である文華放送採用され放送記者となる。報道部から制作部昇格するが、1967年昭和42年3月には報道部戻される。しかし、小柳勧め同年4月1日付で営業部員となる。それ以来以前とは比べものにならない程、業績上がり営業マンとしてトップに立つも、1970年昭和45年)末、退職したい思うようになり3度目辞表提出出し、ついに退職する退職後、サンポール物産再就職台湾穂高から輸入されハイライザー出荷するも、突如サンポール物産解散命じられ、とうとう解雇される葛巻から扶桑産業就職勧められるが、それもつかの間僅か6ヶ月解雇され1972年昭和47年7月17日付でホダカ物産設立され社長となる。 武田和子 光司の妻。学習院大学仏文科卒業。きつい性格で、光司にもよく注意する武田幸太郎二郎の兄。光司・和子夫妻長男1964年昭和39年11月4日生まれ大卒後、丸三証券就職し経済的に自立する武田憲二郎 幸太郎の弟。光司・和子夫妻次男1966年昭和41年1月23日生まれ大卒後、東京電力就職し経済的に自立する武田勇司 光司の弟。金司・セキ夫妻次男1941年昭和16年生まれ翌年1歳の頃、母・セキと兄・光司と一緒に渡満する。しかし、新京栄養失調罹病この世去った。僅か4歳であった武田悦子 光司の妹。金司・セキ夫妻長女1945年昭和20年4月5日生まれ武田金司 光司と勇司と悦子の父。セキの夫。職業警察官であり、1940年昭和15年)、勤務先の関係で渡満する。1945年8月15日終戦直後ソ連軍捕虜となり、シベリア抑留される。1947年昭和22年)、7年ぶりに帰国その後葛飾区新小岩で妻・セキと共に料亭天平」を経営する武田セキ 光司と勇司と悦子の母。金司の妻。1914年大正3年)か1915年大正4年生まれ推定される1967年昭和42年3月52歳であることから)。1942年昭和17年)、夫・金司を追うように、息子の光司(当時4歳)と勇司(当時1歳)を連れて渡満する。三江省(現:黒竜江省北東部佳木斯市市場で、「天平」という屋号惣菜店経営する。しかし、1945年8月15日終戦直後、「天平」は事実上倒産し、光司と勇司と悦子連れて日本へ向かう。新京引揚船が来るまで1年以上滞在した1946年昭和21年9月上旬頃、葫芦島市から引揚船乗って舞鶴港帰国。それから、葛飾区新小岩で再び「天平」を経営し始める。

※この「武田一家」の解説は、「勇気凛々」の解説の一部です。
「武田一家」を含む「勇気凛々」の記事については、「勇気凛々」の概要を参照ください。

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