武田七戸氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/08 00:35 UTC 版)
九戸政実の乱に参加した七戸氏は、八戸氏分家の七戸氏のほかにもう一つあった。七戸伊勢守慶道の家である。七戸慶道は七戸朝清の子孫という武田某の子である。ただし武田某は全く七戸氏系図にみえない。一方、系譜には慶道の室が七戸朝清女とあるため、武田慶道が七戸朝清の家に入婿したと推測される[要ページ番号]。また慶道は七戸城主というが、七戸家国も七戸城主で矛盾している。七戸地方のどこかに拠ったとみられるが不明である。 慶道は九戸政実の乱で討死した。慶道の子は生き残り、長子・慶通は僧になって流浪したが慶長5年(1600年)に盛岡藩に戻り100石を得た。子孫は幕末まで南部藩士として続いた。
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