七戸直勝系の七戸氏
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九戸政実の乱で七戸氏が滅ぶと、七戸城は南長義(信義)の次男・直勝が浅水城から移った。この七戸直勝は武田七戸氏の七戸慶道の名跡を継いだという(「北郡沿革大要」『七戸郷土誌稿本』)。 しかし直勝は七戸襲封の時期・在職期間・死亡年月日などが不明。直勝の次は嫡男・直時が城を継承したが、直勝の死が原因ではなく継承時期も不詳である。慶長2年(1597年)には既に直時が七戸にあったとみられるが、直勝は慶長13年・18年に寺院の造立・修造に関与している。 この七戸直勝の動向を説明する異説として、直勝は平内地方の小湊福館城主も兼ねていたとする説がある。もともと福館城には直勝と同時代の七戸隼人宗慶(慶長5年没)が拠っており、宗慶の子・尚昌が継いで陸奥津軽藩士として続いているのだが、八戸氏流七戸氏一族というだけで宗慶以前は不明である。先の異説ではこの宗慶と南直勝を同一視する。まず七戸・小湊福館両城主だった直勝は、津軽為信の計略により小湊福館城とともに津軽方に降り、津軽方では福館城を安堵され七戸宗慶と名乗ったという。慶長13年・18年の件は津軽配下となってからの事蹟とする。直勝を失った南部側は、新たに七戸城へ直時を入れた。また直時は直勝の子ではなく、直勝の兄・南康慶の子だとみなしている[要ページ番号]。(『上北町史 上巻』) 直勝の動向ははっきりしないが七戸在城は短かったとみられ、九戸の乱後で荒れた七戸地方の建て直し始めたのは2代目の直時であった。彼は2,000石を知行して南部藩の家老を務めている。 直時の跡は養子で藩主南部利直の六男・重政が相続した。しかし寛文4年(1664年)重政は兄・重直の跡を継いで重信と改名し本家・盛岡藩南部当主となったため、七戸氏は断絶した。 重信が宗家を相続したのちは、南部宗家の庶子が七戸姓を名乗った。その中で七戸直時系の名跡を継いだのは藩主となった重信の4男・英信である。元禄3年(1690年)に800石で七戸氏を継承したが、七戸地方を領地とはしていない。七戸城には英信の弟・政信の系統が支配することになり、幕末に七戸藩となっている。 英信のあとは養子で重信の一二男・舜信が継ぎ、同12年に加増され1,000石となった。舜信の次は嫡男・信有が相続したが、正徳2年(1712年)、信有は主命によって八戸利戡の末期養子となり七戸氏は再び絶家となった。 寛延2年(1749年)、英信の養女(実は英信の弟で同じく七戸を名乗った愛信の娘)を母に持つ北継賜が七戸の名跡を継ぎ100石(のち加増で200石)を与えられた。継賜の跡は継屋、志摩、求馬と続いて明治を迎えた。
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