七戸直勝系の七戸氏とは? わかりやすく解説

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七戸直勝系の七戸氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/08 00:35 UTC 版)

七戸氏」の記事における「七戸直勝系の七戸氏」の解説

九戸政実の乱七戸氏滅ぶと、七戸城南長義信義)の次男・直勝が浅水城から移った。この七戸直勝は武田七戸氏七戸慶道の名跡継いだという(「北郡沿革大要」『七戸郷土誌稿本』)。 しかし直勝は七戸襲封の時期在職期間・死亡年月日などが不明。直勝の次は嫡男・直時が城を継承したが、直勝の死が原因ではなく継承時期不詳である。慶長2年1597年)には既に直時が七戸にあったとみられるが、直勝は慶長13年18年寺院造立修造関与している。 この七戸直勝の動向説明する異説として、直勝は平内地方小湊福館城主兼ねてたとする説がある。もともと福館城には直勝と同時代七戸隼人宗慶慶長5年没)が拠っており、宗慶の子尚昌継いで陸奥津軽藩士として続いているのだが、八戸氏流七戸氏一族というだけで宗慶以前不明である。先の異説ではこの宗慶と南直勝を同一視する。まず七戸小湊福館両城主だった直勝は、津軽為信計略により小湊福館とともに津軽方に降り津軽方では福館城を安堵され七戸宗慶名乗ったという。慶長13年18年の件は津軽配下となってからの事蹟とする。直勝を失った南部側は、新たに七戸城へ直時を入れた。また直時は直勝の子ではなく、直勝の兄・南康の子だとみなしている[要ページ番号]。(『上北町史 上巻』) 直勝の動向はっきりしない七戸在城は短かったとみられ、九戸の乱後で荒れた七戸地方建て直し始めたのは2代目の直時であった。彼は2,000石を知行して南部藩家老務めている。 直時の跡は養子藩主南部利直の六男・重政相続した。しかし寛文4年1664年重政は兄・重直の跡を継いで重信改名し本家盛岡藩南部当主となったため、七戸氏断絶した重信宗家相続したのちは、南部宗家庶子七戸姓を名乗ったその中で七戸時系名跡継いだのは藩主となった重信の4男・英信である。元禄3年1690年)に800石で七戸氏継承したが、七戸地方領地とはしていない七戸城には英信の弟・政信の系統支配することになり、幕末七戸藩となっている。 英信のあとは養子重信一二男・舜信が継ぎ、同12年加増され1,000となった。舜信の次は嫡男・信有が相続したが、正徳2年1712年)、信有は主命によって八戸利戡末期養子となり七戸氏は再び絶家となった寛延2年1749年)、英信の養女(実は英信の弟で同じく七戸名乗った愛信の娘)を母に持つ北継賜が七戸名跡継ぎ100石(のち加増200石)を与えられた。継賜の跡は継屋、志摩、求馬と続いて明治迎えた

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