武号作戦
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1942年(昭和17年)10月以降、第一次アキャブ作戦などイギリス軍の反攻作戦が起きるようになった。1943年(昭和18年)前半には、オード・ウィンゲート率いるコマンド部隊が空挺侵入して、地形的に防衛側有利と思われたチンドウィン川東方のジビュー山系へもイギリス軍の反攻が可能なことが示された。ウィンゲート旅団は撃退したものの、今後のさらに活発なイギリス軍の反攻作戦が予想された。 日本側では太平洋方面の戦況が悪化し、ビルマ方面からは航空兵力が転用されるなど戦力低下が生じていた。そこで日本側は防衛体制の刷新を図り、3月に緬甸方面軍(ビルマ方面軍)を創設するとともに、その隷下の第15軍司令官に牟田口廉也中将を昇格させた。この大規模な組織再編・人事異動により、第15軍司令部では牟田口以外の要員の多くが入れ替わったため、現地事情に詳しいのは司令官の牟田口と参謀(防衛担当)の橋本洋中佐だけとなってしまい、幕僚達が司令官のビルマでの経験に頼らざるを得ない状況となった。これが司令官の独断専行発生の構造的な要因となり、本作戦失敗の遠因ともなった。 第15軍司令官となった牟田口は、従来の単純な守勢から攻勢防御によるビルマ防衛への方針転換、つまり、イギリス軍の反攻拠点であるインパールを攻略し、さらにインドのアッサム州へと進攻するという計画を強く主張するようになった。かつては攻勢反対論者だった牟田口であったが、ウィンゲート旅団のような反攻を受けた場合、現在のジビュー山系防衛線が無効化することを恐れて判断を変えていた。より西方のチンドウィン川に新たな防衛線を構築することも考えられたが、乾季には障害として不十分であり、彼我兵力比を考えると防衛正面も広すぎるため、むしろインパールを経てアッサム地方まで進攻すれば、連合軍の反攻を封じることができるだけでなく、インドの独立運動を誘発して戦争の早期終結につながるとの期待も持っていた。名目上も保留中の二十一号作戦を自らの手で行おうというこの構想は、(日中全面戦争の発端となった)盧溝橋事件に関与した牟田口の個人的責任感にも由来するとの見方もある。 牟田口は、まずインドへの侵攻拠点として、防衛線をビルマ領内のチンドウィン川西方ミンタミ山系に進めることを考えた。イギリス軍の反撃を避けるために、部隊行動が難しくなる雨期入り直前に奇襲的に防衛線を進めるべきだと牟田口は主張、これを「武号作戦」と呼称した。しかし、小畑信良第15軍参謀長らは、ウィンゲート旅団掃討後の部隊休養・再編が先決であることや、チンドウィン川西方への兵站・支援部隊の駐屯は困難であることなどから、武号作戦に反対した。まもなく実際に雨季が近付いたため、作戦実行は時期的に不可能となり、作戦案は自然消滅となったが、小畑参謀長の消極意見は牟田口の強い怒りを買った。また、小畑が軍司令官に直言せず隷下の田中新一第18師団長を通じて翻意を促した点は、統率上問題であると田中師団長が進言し、牟田口も同意見で参謀長更迭を決心した。小畑参謀長は就任後わずか1か月半の5月に、河辺方面軍司令官の承諾を得て罷免された。
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