武号作戦とは? わかりやすく解説

武号作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 07:14 UTC 版)

インパール作戦」の記事における「武号作戦」の解説

1942年昭和17年10月以降第一次アキャブ作戦などイギリス軍反攻作戦起きようになった1943年昭和18年前半には、オード・ウィンゲート率いコマンド部隊空挺侵入して地形的に防衛側有利と思われチンドウィン川東方のジビュー山系へもイギリス軍反攻可能なことが示された。ウィンゲート旅団撃退したものの、今後のさらに活発なイギリス軍反攻作戦予想された。 日本側では太平洋方面戦況悪化しビルマ方面からは航空兵力が転用されるなど戦力低下生じていた。そこで日本側は防衛体制刷新図り3月緬甸方面軍ビルマ方面軍)を創設するとともに、その隷下第15軍司令官牟田口廉也中将昇格させた。この大規模な組織再編人事異動により、第15軍司令部では牟田以外の要員多く入れ替わったため、現地事情に詳しいのは司令官牟田口と参謀防衛担当)の橋本中佐だけとなってしまい、幕僚達が司令官ビルマでの経験に頼らざるを得ない状況となった。これが司令官独断専行発生構造的な要因となり、本作失敗遠因ともなった第15軍司令官となった牟田口は、従来単純な守勢から攻勢防御によるビルマ防衛への方針転換、つまり、イギリス軍反攻拠点であるインパール攻略し、さらにインドアッサム州へと進攻するという計画強く主張するようになったかつては攻勢反対論者だった牟田であったが、ウィンゲート旅団のような反攻受けた場合現在のジビュー山系防衛線が無効化することを恐れて判断変えていた。より西方チンドウィン川新たな防衛線を構築することも考えられたが、乾季には障害として不十分であり、彼我兵力比を考えると防衛正面も広すぎるため、むしろインパール経てアッサム地方まで進攻すれば、連合軍の反攻封じることができるだけでなく、インドの独立運動誘発し戦争早期終結につながるとの期待持っていた。名目上保留中の二十一号作戦を自らの手行おうというこの構想は、(日中全面戦争発端となった盧溝橋事件関与した牟田口の個人的責任感にも由来するとの見方もある。 牟田口は、まずインドへの侵攻拠点として、防衛線をビルマ領内チンドウィン川西方ミンタミ山系進めることを考えたイギリス軍の反撃避けるために、部隊行動難しくなる雨期入り直前奇襲的に防衛線を進めるべきだと牟田口は主張、これを「武号作戦」と呼称した。しかし、小畑信良第15軍参謀長らは、ウィンゲート旅団掃討後の部隊休養再編先決であることや、チンドウィン川西方への兵站支援部隊駐屯は困難であることなどから、武号作戦に反対した。まもなく実際に雨季近付いたため、作戦実行時期的に不可能となり、作戦案は自然消滅となったが、小畑参謀長消極意見牟田口の強い怒り買ったまた、小畑軍司令官直言せず隷下田中新一第18師団長を通じて翻意促した点は、統率問題であると田中師団長進言し、牟田口も同意見で参謀長更迭決心した小畑参謀長就任後わずか1か月半の5月に、河辺方面軍司令官承諾得て罷免された。

※この「武号作戦」の解説は、「インパール作戦」の解説の一部です。
「武号作戦」を含む「インパール作戦」の記事については、「インパール作戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「武号作戦」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「武号作戦」の関連用語

武号作戦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



武号作戦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのインパール作戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS