欧州の文学と文学者
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第一次世界大戦の開戦後にドイツがベルギー、フランスに侵入すると、ゲアハルト・ハウプトマンらドイツの文学者他の知識人93人により、各国からの抗議に答えるための、ドイツの行為を正当化する「93人のマニフェスト 文明世界に訴う」が発表される。一方でヘルマン・ヘッセは「おお友よ、その調子をやめよ!」で人道主義的な立場で戦争賛美への反対を訴え、ドイツから裏切り者として弾劾された。またヘッセは開戦後から「平和」「戦場の死」「戦場で倒れた友に」といった平和や、兵士に思いをはせる詩を作り、ドイツ捕虜保護機関の慰問文庫にも尽力し、敗戦後1919年に匿名で『デミアン』という、瀕死の重傷を負った青年の遺稿という形で、ヨーロッパ文明への批判を込めた小説を発表して、大きな反響を起こした。開戦の報をスイスで聞いたロマン・ロランは、各国の知識人や文学者に呼びかけて反戦運動を行い、政治論集『戦いを越えて』(1915)や、戦争に引き裂かれる恋人達を描く『ピエールとリュース』(1920)などを刊行する。ロランの理想主義を批判したアンリ・バルビュスも従軍経験による反戦小説『砲火』(1916)を執筆。ロランはまたヴェルサイユ条約に幻滅して「精神の独立宣言」を発表、これに多くの文学者も賛同した。ロマン・ロランは孤立していたヘッセとも親交を結び、ヘッセのエッセイ集「戦争と平和』(1946)はロマン・ロランに捧げられた。デンマークの言語学者クリストフ・ニーロップも開戦直後から反戦論を発表し、『戦争と人間』(Er Krig Kultur? 1917)として刊行した。 また大戦が始まると、フランスでは軍人の英雄的な行動を語る短編小説の週刊のコレクション「祖国」「青少年のための薔薇書籍」などが、レオン・グロック、ギュスタヴ・ル・ルージュ、ジャン・プティユグナンといった大衆小説家が執筆により刊行され、またルールタビーユやアルセーヌ・ルパンといった人気ヒーローも戦場で活躍した。『オルヌカン城の謎』(1915)では戦場での陰謀を暴くルパンらの活躍が描かれるが、愛国心や敵国への憎悪という当時の国民感情と、平和への希みが相半ばしている。シャーロック・ホームズは『最後の挨拶』(1917)において、政府の諜報活動に従事していた。ホームズの相棒ワトスンはアフガニスタンで負傷した元軍医であり、またエルキュール・ポアロはベルギーからの戦争難民という設定でもある。 一方で、野戦外科医としての体験を元にしたジョルジュ・デュアメル『受難者伝』(1917)、ロラン・ドルジュレス『木の十字架』(1919)などが戦争批判的な優れた作品や、軍人体験を陽気に描写したルネ・ベンジャマン『ガスパアル』(1915)などが書かれた。オーストリアのアンドレアス・ラッコオ『戦いの人々』(1918)は挿話の積み重ねで戦争の恐怖を訴え、ロシアのアレクサンドル・クプリーンは『聖女の花園』(1915)で戦争の受難を嘆いた。スペインのブラスコ・イバニェスによる『黙示録の四騎士』(1916)はドイツの侵入を受けたフランス側の立場で書かれ、アメリカでベストセラーとなって同国参戦の世論を決定したとも言われ、続いて大戦を題材とした『われらの海』(1918)、『女性の敵』(1919)が大戦三部作と呼ばれる。ロレンス・ビニヨンの、大戦で戦死した若者を悼む「戦没者を悼む(For the Fallen)」(1914)は、リメンブランス・デー(戦没者記念日)で永く誦せられている。 終戦後にも、ベルナルド・ケラーマンは『11月9日』(1920)でドイツ軍国主義の無為な行く末を描き、表現主義派のフリッツ・フォン・ウンルーの従軍経験による『犠牲の徒』(1919)も、戦場の悲惨さを描いている。メーテルリンクの戯曲『スチルモンドの市長』(1919)ではドイツ軍の非道さを描いた。
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