検事総長と州知事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/08/08 23:06 UTC 版)
「ジョン・H・クリフォード」の記事における「検事総長と州知事」の解説
クリフォードが告発した最初の大きな事件は、ボストン・バラモン(エリート階級)であるジョージ・パークマンが殺された事件だった。19世紀でも最大級に世間を騒がせた事件と言われている。パークマンは1849年11月に失踪し、ハーバード大学の教授ジョン・ホワイト・ウェブスターがその殺人容疑で逮捕された。死体処理の陰惨な方法(完全ではなかった)、死刑に相当するという事実、犠牲者も容疑者も上流階級にあるということが、この事件に大衆の興味を大いに掻き立て、法廷は傍聴者で一杯になった。この事件は実際の死体が無いという事実で複雑になった。パークマン家から雇われていた弁護士ジョージ・ベミスの助けを得て、クリフォードは法歯学の見解を証拠に使い、また強い状況証拠でウェブスターに対する立件につなげた。陪審員は2時間半の検討後に有罪を回答した。その後首席判事のレミュエル・ショーが陪審員に与えた指示に関して多くの議論があったが、ウェブスターは犯行を自白した後で絞首刑に処された。この事件は法学者の間に関心を継続させた。これは被告の弁護人(重大な刑事裁判にかんする経験のない弁護士も含まれていた)が提出された証拠を積極的に議論しておらず、また無罪を証明する可能性のある証拠を提出しなかったことも関係していた。 1852年、州のホイッグ党が、パークマン事件で得られたクリフォードの人気を利用して州知事候補に指名し、クリフォードは渋々ながらそれを受け入れた。選挙レースは難しいものであり、大統領選挙の影響が強く、候補者は禁酒を進める「メイン法」に対する姿勢を示す必要があった。クリフォードはホイッグ党の推薦に加え、メイン法に反対する党からも指名され、対抗馬の一人ホーレス・マンは自由土地党とメイン法擁護派の指名で出馬していた。ホイッグ党は1850年妥協に対する反応で分裂しており、国政選挙(州の選挙の1週間前に行われた)では多くのホイッグ党の票が民主党のフランクリン・ピアースに流れていた。クリフォード、マン、および民主党のヘンリー・W・ビショップが出馬した3人の争いで、クリフォードは投票総数の45%を獲得した。普通選挙では過半数条項がまだ有効であり、最終判断は州上院に委ねられ、クリフォードがビショップに対して29票対4票で当選した。ただし、ホイッグ党の一派はクリフォードを支持するのと引き換えにアメリカ合衆国上院議員ジョン・デイビスの交代を要求した。 クリフォードは州知事を1期1年のみ務めた後、弁護士として働くことを好み、再選を求めて出馬しないことにした。その後継者であるエモリー・ウォシュバーンが再度クリフォードを検事総長に指名したので、1854年から1858年まで務めることになった。この任期中にはノウ・ナッシング党の州知事ヘンリー・J・ガードナーの政権である時期もあった。ガードナーはノウ・ナッシングの出現以前は政治的にホイッグ党支持者であり、クリフォードを検事総長に据えたままにした。この二人はノウ・ナッシングの反移民法や極端な改革提案の幾つかについて対立した。ガードナーの就任中(1855年-1858年)、マサチューセッツ州憲法が改定されたので、検事総長は指名職ではなく選挙で選ばれる職に変わった。1858年の選挙ではクリフォードの後任としてスティーブン・ヘンリー・フィリップスが当選した。
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