栗山川疏水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 05:11 UTC 版)
「山武郡東部連合耕地整理組合」の記事における「栗山川疏水」の解説
機械化の恩恵に浴した郡東部とは裏腹に、地引網漁で活況を呈していた南部は逆であった。地引網漁の網舟ように、波をかいくぐり沖合いに出、漁を終えたあと人手によって砂浜の奥まで引き上げられるような小型船は、安全性は高いがエンジンを搭載することはできず、海上郡や夷隅郡の漁港から出漁する揚繰網を備えた動力船に太刀打ちできるものではなかった。良港に恵まれない南部の地域の漁業の衰退はおおうべくもなく、漁業から農業への転換が進められた。大きな川が無く水に恵まれなかったため漁業よって発展した南部の地域が、大きな川が無く良港に恵まれないことから農業への転換を余儀なくされたのであるから、水不足は深刻であった。 また、北部の佐原町一帯では水害が激化しており、加えて1942年(昭和17年)には食糧管理制度が設けられるなど、太平洋戦争の戦時体制下食料事情が悪化がしていたこともあり、1943年(昭和18年)に戦時の食料増産計画の一環として、用水不足解消と排水の改良を同時に考えた、利根川の水を栗山川に引き込む両総用水事業が計画された。栗山川の水を利用していた当組合にとっては分担金の負担が増すだけで迷惑な計画であったが、戦時中のことであり昭和天皇のお声ががりということもあって、異論を差し挟むことは許されなかった。太平洋戦争の激化による一時中断を経て、1947年(昭和22年)両総用水の工事が再開される。耕地整理法の廃止と土地改良法の施行にともない、当組合は1951年(昭和26年)に山武郡東部土地改良区と改称した。1958年(昭和33年)には両総用水の工事の進捗により、塩分を含んだ利根川の水が栗山川に引き込まれた昭和33年塩害により多大な被害を被る。 1965年(昭和40年)に両総用水が竣工。両総用水のトンネルやサイホンには銘盤が刻まれていて、その揮毫者は農林大臣や国会議員、農林省関係の官僚や技師、関係地域の市町村長、役場や土地改良区の職員、工事を担当した建設会社、工事担当者、はては詩人にいたるまで多士済済にわたっているが、幹線の通っている多古町、横芝町、松尾町、成東町の関係者の名はない。 1950年(昭和25年)には大利根用水が竣工しており、塩害防止を目的とした常陸川水門が1963年(昭和38年)に、また利根川河口堰も1971年(昭和46年)に竣工し、ようやく九十九里平野に安定した農業用水が供給されるようになった。田植えなどの必要な時には大量の水を供給し、収穫後は排水して乾田化することにより、大型のコンバインやトラクターを導入しての機械化が可能になったのである。米食悲願民族といわれる日本人にとって、米を主食とすることは有史以来の悲願であったが、米の自給が実現でき、米が実際に主食となった時代である。しかし、1970年(昭和45年)には減反政策がとられ転作が進められた。九十九里平野の水田稲作中心の農業は他の作物への転作は容易ではなかったが、生鮮野菜の栽培などの他、観光産業への転換も図られた。余剰となった利根川の水は、栗山川部分を共用する房総導水路により江戸川東岸から南房総に至る地域に給水され房総半島を潤している。 2013年(平成25年)、山武郡東部土地改良区は両総土地改良区に吸収合併され、山武郡東部連合耕地整理組合設立以来100年の歴史を閉じた。だが、老朽化により改修されているものの揚水機場、用水路とも今なお健在である。、
※この「栗山川疏水」の解説は、「山武郡東部連合耕地整理組合」の解説の一部です。
「栗山川疏水」を含む「山武郡東部連合耕地整理組合」の記事については、「山武郡東部連合耕地整理組合」の概要を参照ください。
- 栗山川疏水のページへのリンク