架橋の歴史とは? わかりやすく解説

架橋の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 14:49 UTC 版)

大川橋 (舞鶴市)」の記事における「架橋の歴史」の解説

現在の大川橋として供用されている2009年平成21年11月22日供用開始した4代目にあたる。全長401mの橋梁新設東側の滝尻峠まで774mのバイパス道路建設による全長1,175mの改良事業一環として整備された。全線両側歩道設置されており、車道は、橋梁部は両側4車線一般部暫定両側2車線としているが4車線への改良余地残しており、社会情勢変化対応できるようにしている。 大川橋はじまりは、1901年明治34年)に架設され藤津船橋であるといわれる橋脚代わりに舟を浮かべその上に床版として板を渡した舟橋といわれるのであるが、洪水によってこのはわずか6年流失した流失から2年後1909年明治42年)には橋脚有する本格的な木製架設され板橋呼称された。 太平洋戦争挟み戦後制定され道路法昭和27年法律第180号)に基づいて現在の国道175号および国道178号二級国道明石舞鶴線および舞鶴鳥取線として指定され1953年昭和28年)に開通したのが3代目にあたる大川橋である。全長180m、幅員6.5mで、アーチ橋一種であるランガー基本に、床版の吊材に斜材を配置しトラス状に組んだものが3連あり、アーチ下を通行するものであったことから、3径間路地式トラスドランガーという形式分類される。 この3代目大川橋は、架橋の後に到来したモータリゼーション社会にも対応し重要な幹線道路として利用されてきたが、交通量増加加え架設され当時より車両大型化したことによって大型車離合に困難を来たし渋滞発生していた。また、通学路指定されているにもかかわらず歩道未整備かあっても狭いものであったことから、歩行者安全確保観点からも改良されることが課題となっていた。さらに、舞鶴港舞鶴国際埠頭当時和田埠頭の名称で計画)や京都縦貫自動車道山陰近畿自動車道などの供用開始などによって交通量増加見込まれたが、設計時に想定されていた交通量はるかに超えていたことで老朽化進行し最新設計用いられる耐荷重基準となる25トンに対応できないことから、架け替え実施決定した改良事業にあたり車道狭く大型車離合に困難を来していた橋梁と、の東詰から西舞鶴市街地へ向かう途中にある滝尻峠までの曲線の多い坂道を、4代目となる橋梁新設バイパス道路建設によって改良することとなり、1999年平成11年)に事業着手された。事業化にあたって高所に移すとともに堤防整備するなど、由良川管理する国の一級河川由良川河川整備計画連携して実施されることとなったというのも3代目大川橋架設されてから台風による5度大規模な洪水被害受けてきたことから災害に強い街づくり求められていたからであるが、架橋事業中由良川流域襲った平成16年台風第23号による浸水被害によってその必要性証明されこの影響により治水対策由良川下流部緊急水防対策と名を変えさらなる強化策図られることとなった。 なお、4代目大川橋開通同時に下流側架橋されていた3代目大川橋撤去され2011年までにその姿を消した

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