架橋初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/14 04:47 UTC 版)
この地は太田川下流域三角州地帯内にあり、戦国時代以前には低地の砂地が広がる土地であった。安土桃山時代、毛利輝元により広島城が築城されると城下町として発展した。 京橋は輝元が入城した1591年(天正19年)に木橋として架橋している。橋名の由来は、「京(京都)へ続く橋」から命名された(城から京(東)方向へ向かう場合、この橋が最初に渡る橋となる。右絵図面参照。)。 江戸時代になると、毛利氏の次に入城した福島正則によって城下町は拡大整備され、それまで山沿いを通っていた山陽道(西国街道)を城下に引き込み、この橋は西国街道筋の橋となった。福島正則の改易によって浅野長晟が入城し、1635年(寛永12年)武家諸法度によって参勤交代が義務化されると、この橋は猿猴橋とともに浅野氏広島藩の参勤交代ルートとなった。 また、防犯上の理由により城下は架橋制限されていたことから、この橋は京橋川唯一の橋梁であった。また当時城下はかなりの頻度で洪水被害に遭遇しており、その際にこの橋も落橋した可能性が高いが記録等は不明である。 この時代、厳島神社の管絃祭において、「御供船」と呼ばれる管絃船の後ろをついていく船を、城下それぞれの川で造られていた。この船は京都祇園祭の山鉾を真似し、年々豪華に飾り立てた。1852年(嘉永5年)、京橋川に浮かぶ御供船を見物する民衆たちによって京橋が崩落し、死傷者が発生する事故が起きている。
※この「架橋初期」の解説は、「京橋 (広島市)」の解説の一部です。
「架橋初期」を含む「京橋 (広島市)」の記事については、「京橋 (広島市)」の概要を参照ください。
- 架橋初期のページへのリンク