架橋前後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/13 13:38 UTC 版)
1870年(明治3年)に上流約2キロメートルの場所、高井田村と国分村の間に「国豊橋」が架橋されると、柏原村と船橋村との間の架橋の機運が高まり、当時の周囲7ヶ村の戸長が発起人となり、広範囲にわたって資金を募った。なお、寄付に応じた人々の居住範囲は南北河内地区が中心であり、この橋が東高野街道の重要地点であることを物語っている。この時、ちょうど下流で掛け替えが行われた「大和橋」で使用された仮橋の払い下げを申請するも、既に落札直後だったため、落札人から買い受けしている。 こうして1874年(明治7年)に現在地に木造の橋が架橋された。しかし架橋直後からすぐに痛みが激しくなり、架橋から2年後には早くも大破し、その翌年には上流から流されてきた渡し船が橋脚に当たり、橋が11メートルほど流される事態となっている。さらに橋板の破れ目から馬が転落するなど、幾度も破損・流失の危機に瀕していた。しかし維持費の捻出は困難を極め、新たな寄付や通行料を徴収したりしたが、それでも村の借金は増える一方であった。1880年(明治13年)になってようやく官費営繕されるようになった。 かつては東高野街道の一部分として交通上重要な橋であったが、近辺に鉄道橋、自動車用道路橋が設置されると重要度は低下し、現在は歩行者・自転車専用橋となる。
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