架橋と最盛期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/28 16:01 UTC 版)
1907年(明治40年)播磨船渠が相生で創業して以来、幾度かの改組・離合を経て1929年(昭和4年)に播磨造船所が成立する。相生市街地と工場とは相生湾で隔てられており、行き来には渡船が用いられていたが、太平洋戦争(大東亜戦争)勃発と共に往来が急増。渡船では需要をまかない切れなくなり、架橋が考えられるようになった。湾奥にも造船所があるため本格的な架橋は当局の許可が出ず、浮橋で対処することになった。1943年(昭和18年)6月18日に開通した橋は、造船所担当の海軍大佐により「皆勤橋」と命名された。 戦後は好景気の波に乗って造船所は栄え、皆勤橋も相生駅から造船所まで自転車で通勤する従業員であふれた。なお1960年(昭和35年)に播磨造船所は石川島重工業と合併して石川島播磨重工業(以下IHI)相生工場となり、1962年(昭和37年)から3年間、単独工場では世界一の建造量を誇っている。1972年(昭和47年)に皆勤橋の通行量は1日1万人に及んだ。
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